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九の扱い [か行]

先日、刀剣乱舞は九周年を迎え、私も審神者就任九周年を迎えました。
本丸の九周年と、審神者九周年の言祝ぎをしてくれる、刀剣男士。

審神者就任九周年のお祝いメッセージは、就任日の一両日中しか言ってくれない。
本丸内の刀剣男士が百八振とかそのくらい(もう数えるのも大変)になった今、全員分は聞けなかった。起動すると言ってくれる仕様なので、その都度、ブラウザを閉じては近侍を代えて立ち上げるのが手間……。
等々、思っているうちに審神者就任記念日が終わってしまうの。

本丸九周年については一か月ほど言祝ぎを聞けるけれど、審神者就任は一両日しか聞かせてもらえないのだ。せめて一気見できる仕様にしてくれまいか……?
よくよくとなれば蘇言機があります。が、もう蘇言機でまかなえる桁じゃない。

そんなわけで就任九周年のお祝いは、初期刀やいつもの近侍、また当方箱推しといえど特にお気に入りの刀剣を優先し、言祝いでもらいました。
今回、特に印象的だったのは古今伝授の太刀の台詞です。

もともと私は古今伝授の太刀の刀剣本体が、ゲーム実装前から好きなのですが、本体はべらべっぴん、というイメージの豊後国行平の作、国宝太刀(永青文庫所蔵)。

以前もこのブログで書いたけれど、古今伝授の太刀は審神者に当然のように求めてくる教養レベルが非常に高い。
審神者の理解力を信用しきってくれていて、野暮な注釈や解説などをつけないところも好ましい。

いにしへに ありきあらずは 知らねども 千歳のためし 君にはじめむ

(一応ネタバレなので白字で載せています。読む場合はカーソルでハイライトして色を反転)

素敵な和歌だが、わからんもんはわからんわけです。

なんとなく分かる気はすれども自信がない。せっかく古今伝授の太刀が私の理解力を信用して、古今和歌を詠ってくれているのに……。
早速、歌仙兼定に確認しようとしたところ遠征中だったため──(という脳内設定の末)ググった。

古(いにしえ)に居たかどうか定かではないけれど、千歳(ちとせ)──千年続く命を、まずあなたから始めましょう

みたいな意味合いだった。

すてき。
ありがとう、古今伝授の太刀。

たとえば古今伝授の時代には空を飛ぶ人間は一人もおらず、当時、空を飛びたいなんて言おうものなら妄想、夢想家だったわけで。
でも現在、鳥のように空を飛べずとも、気球やら飛行機やらで人間は空を飛べる。

そうしてみると現在の世において、古今伝授の太刀が、古今和歌の、この歌を選んで言祝いでくれる審神者就任九周年、洒落ているではありませんか。

人間、苦しい時はこの人生を苦しいまま長引かせたくないあまりに、この苦痛が解消されないなら早く幕を下ろしたい、と思う。千歳を祈願してくれる時点で、幸せな状況を夢見られる、この九周年という節目を良いものに出来そうな気がして、嬉しいですよね。

さて、この九周年という数字について。
いろんな刀剣男士が「大台が間近」「大きな節目の前の九周年目」とかと表現することに、非常に違和感がありました。

だって九という数字が、まず大きな節目なのでね。
九は、十の前の数字、というだけではない。
もともと九は最も縁起の良い数字です。
中国伝来の漢数字、奇数が縁起が良いとされており、奇数は陽、偶数は陰。
縁起の良い三五七と来て、九はその最上、最も縁起がいい数字とされている。

刀剣乱舞の運営が特番動画で、十年を目指したその節目の一つ前の年、といった感じの表現をしていたときも「む?」
少々、引っかかりはした。
が、そこは所詮現代ですし、十周年を目指すのも分からなくはない。

ただ、刀剣乱舞は二十四節気を尊ぶような世界観でやってるわけで。
なのに九という節目の扱いが、十の手前というだけだなんてさ……。

そもそも刀剣男士は刀の付喪神という前提。
九十九(つくも)神とも書くわけですし、和風の世界観を全面的に出しているのだから、九について、もう少し特別がったり、素敵がったりしてもいい。

現代の日常において、数字に特定の意味を持たせるということは、あまり私は好きではありませんが。
七五三、これらの数字が縁起が良い節目なのは有名でしょ。

三月三日を桃の花の節句で祝い、五月五日を端午の節句で祝い、七月七日に七夕がある。
で、マックス縁起の良い九月九日は、重陽の節句です。菊の花でお祝いをする。
縁起の良い九が二つも重なるから、重陽。
大層なお祝いですよ(中国だとガチで大きなお祝いのはず)。

節句って、節目だから、節句です。
なのにかなり多くの刀剣男士が「十年を節目と見据えてその前」という認識をしてくる。
これ、作品の世界観の崩壊に近くないか……。

そんな中、古今伝授の言祝ぎはさすがで、ひときわ喜ばしかった。

九という数字が非常にめでたいにも関わらず、その認識が刀剣乱舞の運営をはじめとして、現代日本にあんまり定着していないとするならば、やはり九という数字が時として苦と同音の発音をするがためでしょうね……。

私は九月生まれなので、九という数字が好きですし、だからこそ九という数字に若干敏感かも。
九という数字に苦の意味を込めたり、見出したりする人が少なくないのも、知っています。
この日本の同音異義語にまつわる根強い言霊の法則、なかなかよね……。

九月生まれで九が好きだとはいっても、九に苦しいという意味を込めたり見出している人が、やたらと私に九を勧めてくる場面は、それはそれで不愉快ではありますよ。悪意が如実だから……。

そんな九月九日重陽の節句を題材にした有名な話といえばやはり、上田秋成の「菊花の約(ちぎり)」で。

「江戸時代の文学」の覚えるべき作品として『雨月物語』は高校時代、試験範囲に入っていた。
大島渚監督の『御法度』でも、沖田が「菊花の約」について、土方に語ってみせるシーンがありますよね。
私は石田彰(敬称略)の「菊花の約」朗読CDを持ってもいた。

この話、皆さん御存知の通り、めでたい重陽の節句を題材にしつつ、めでたい話ではない。
雨月物語は怪談だし(私からすると和ゴス)。
怪談は常に死の影が濃厚にある。

このブログを読む人で「菊花の約」を知らない人はいないと思いますが、ざっくり記すと、物語は戦国時代。
母と暮らす儒学者で清貧な暮らしをしている左門が、行き倒れている武士を見つけ、家に連れ帰り、介抱する。武士の名は宗右衛門。左門の介抱の甲斐あって回復した。
左門と宗右衛門は親しくなります。義兄弟の契りを結ぶ二人。
宗右衛門は国許の異変(事変というか)を聞き、急ぎ国許に戻るところで病に倒れたのだった。

元気になって宗右衛門が国許へと発つときに、「重陽の節句に必ず会おう」と再会の約束をします。宗右衛門が左門のところにくる、という形での約束を。

ところが九月九日、左門が貧しいながらも御馳走を用意して心待ちにしているのに、なかなか来ない。日も落ち、もう来ないのか……と思ってるところに現れる宗右衛門。
嬉しそうな表情をするものの影が薄く、疲れている感じで御馳走にも箸をつけず、聞けば、
「裏切り者の手下となっていた親戚筋に捕えられて、長らく監禁されていた。人が一日に千里を進むことはかなわないが、魂なら一日に千里をもかけると聞いた。だから自害して会いに来た」
と告白する。
「人一日に千里をゆくことあたはず。魂よく一日に千里をもゆく」

事情を知った左門は、宗右衛門の代わりに宗右衛門の国許に行き、宗右衛門を監禁した親戚筋を殺し、仇を討った。

つまり霊魂絡みの、仇討ち話。
最終的には目的を果たす。
にもかかわらず、一貫して情感が、めでたくない。

そもそも、待ち合わせに間に合いたくて自害するなんて、日本人の刻限厳守って昔から洒落にならん……。「霊魂は千里を駆けると聞いた」だけで自害して、もしもそれが噓だったら死に損じゃないか、ずいぶんと思い切ったな。会えてよかったよ……。

という以上に、──遅れたとしても左門は絶対許してくれたぞ。もちろんその日は残念で、寂しく過ごすし、場合によっては恨めしく思ったかもしれないが。あとで事情を聞いたなら、約束の日にちに間に合うために死なれるより、遅れてもいいから、生きて会いにきてほしかったはずだよ──
でもそこを思い切って成し遂げるからこそ、美しい物語なのだ。

これが普通の日付だったなら、ここまで「この日に絶対、会いに行かなくては」と宗右衛門も思いつめなかったのでは。当時の読者も「何を早まったか」と思う気持ちが強くて、現代まで名作として伝わっていなかったかもわからない。
監禁してきた相手が親戚筋なので、殺されると決まった環境ではない。
場所も橋の上で会おうとか、船着き場で会おうとかではない。左門の家で再会する約束なんです。その日を逃しても会える。早まったか宗右衛門。

でもそれが……昨今の日本のクリスマス事情にわずか通ずる部分もある(?)一緒に過ごす相手を厳選すべき、そんな特別感をともなって定着している──重陽の節句で、文字通り死んでもすっぽかしたくない節目なんだ……
という認識に後押しされてもいたならば。

重陽という超絶めでたい九月九日であると同時に、同音異語として九が喚起する苦のイメージ、この両極の固定観念が日本に定着していたからこそ、しかも菊の節句です、
「菊花の約」
美しいが残酷で、儚くもしぶとい(自害はしたが、義兄弟にちゃんと会えて、用件を伝えられ、きちんと仇は討ってますから)、そんな両極のテイストを織り込んだ名作ができたのかもなあ。
そう思えたりもするわけです。

金木犀の香り [か行]

金木犀シーズン到来です。
今年はもう咲かないのかもしれないとすら思い始めていた。

金木犀の開花時期に関しては、春先の桜よりも私は毎年よほど意識していて、東京はたいてい9月の最終週の2~3日くらいで咲き始める。
10月の最初の週でみっちり香り、はたりと途絶える。
年によって多少の前後はありますが、10月10日以降には、もう香らなくなっているものですよね。

昨年は9月28日頃に開花しています。
「金木犀の香りがして空気が甘い」とメモしてあるので。
10月2日には「〇〇〇のところの金木犀は咲いていて、まだひときわ香るけれど、空気全体が金木犀という感じはもう無い」
10月5日には金木犀云々の記述自体が一切、ない。もうほとんど香らなくなっていた。
ちなみに私は日記などは特につけていないのですが、金木犀については特枠なのだ。

そうしてみると、ちょうど半月遅れですよ。
通常よりも半月も、酷い猛暑が長く続いたんですよ……。

今年はプランターで育てていた大葉(紫蘇)が8月に全部、暑さで突如一気に枯れた。
水やり不足とかではなく。これまで夏に、そんなことは一度も無かった。

いっぽう、同じ鉢で育てていたバジルはいつまでたっても花をつけずに果てしなくニョキニョキと旺盛に伸び続け、花をつけだすと葉の収穫は期待できなくなってくるので、そういう意味では良いのかもしれないのだが、花から種をとって翌年に備えたい場合には、当然、必要なフェーズが訪れない……。

金木犀も、今年は咲かないなんてこと、ひょっとしたらありうるのかな……と(金木犀は種で増えるわけではないけれども)。
味気なくて、心待ちにしていたんです。

金木犀もようやく調子を調えてきてくれたか。
わかるよ、今年の夏の暑さは、人間もいつも以上に辛かった。
秋の役者がついに揃ってきて、嬉しいです。

キーウィ動画シェア [か行]



ちょっとくらいの嫌なことはこの動画を見れば吹っ飛ぶ。
少なくとも私には効いた。
私は鳥が好きで、大好きなのは小鳥(……なのは、再三、言ってますね)。
とはいえ小鳥じゃなくても鳥全般、好きです。

見た目が苦手な鳥も、中には居る。フラミンゴの顔は個人的には駄目です。目が怖い。
トキも顔が怖い……羽はめっちゃ美しいが。

『カンパニュラの銀翼』で、絶滅してしまったスティーヴン岩サザイについて書いています。
あの剝製はけっこう物語のキーポイントになってくるわけですが、飛ばない鳥だった。
南半球のあのへんは飛ばない鳥が多いですよね(同作中で言及するエミュもそう)。

十五年以上前にニューカレドニアに観光に行ったときに、カグーという飛ばない鳥を見に行ったりしましたが、保護区域で暮らしているんですよね。
南半球の飛ばない鳥というと豪州とニュージーランドのキーウィが有名だけど、キーウィだけじゃないんだな……と知ったのでした。その割にカグーが有名でないのは、むしろ喜ばしいのかも。
自然生物はあんまり人に知られないほうが良いケースが多々ある。

それにしてもキーウィ、めっちゃ可愛いな。申し訳ないがコケるところが天然すぎで。
手乗りでないかぎり、鳥は人間に見られているときは、たいてい取り澄ましてるか、さもなくば警戒している。誰も見ていないと、こんなにものびのびピョンピョンしているんだね……。

鏡合わせの双子メーカー [か行]

気分転換にPicrewの画像メーカーで遊んだりします。
一時期、やたら気分転換と称してやっていた。
もちろん私は「Picrewで遊ぶ」側です。
「Picrewでつくる」側ではない。
流行りましたよね。今もコンスタントに需要がある感じなのかな。

いろんな絵柄で、ちょっとお絵描きをしたかのような気分が即興で味わえる。
パーツや服装、髪型などを選んでいくだけなのに。
けっこう目指している完成度に近づけられるから、楽しいです。

今回「鏡合わせの双子メーカー」というのを発見。
《一つになりたい双子ちゃんや向かい合わせのペアキャラが作れます》
……え、やる!

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『コンチェルト・ダスト』のエミールとエミリヤをイメージしてみた。

エミリヤが目を閉じているヴァージョンはこちら。
download20220705003209.png
作中のメインイメージより幼いので、回想シーンという感じか。
本当はややロゼワインのような色味のかかった明るい金茶の髪色なのですが、さすがにその色は指定範囲内になくてですね。
出来る範囲でなるべくイメージに寄せてみた。

「鏡合わせの双子メーカー」
《一つになりたい双子ちゃん》
というテーマなら『黒十字サナトリウム』のミシィカとレイナもいけるんでは?

download20220705002134.png

レイナが病の床に臥せりだした頃。
ミシィカが寄宿舎に入れられる前。
二人の将来を予見させる感じで。あくまでもイメージだけれども。

ミシィカとレイナは双子だけれど瞳の色が微妙に違う。
ミシィカのほうが中心部が緑色がかっている。
そこを作中で庭師の息子のソーレンに指摘されます。

健診車両の実装 [か行]

東京は緊急事態宣言継続中なのに、なんか一気にお気楽ムード……というのを、
窓から通りを見下ろしながら、ひしひしと感じる昨今。

よくやる、私の単なる思考実験の発露や、与太話の類ではなく、
真剣にずっと思っていたことがあり、
(レントゲン車両の要領で、PCR等専用車を病人に派遣すればよいのに。なぜやらないんだ)
すぐにも実現可能なことだからやってくれればよいのに……とモヤモヤした心地でいる。

とっくに取り組んでいるだろう、そろそろだろう期待していたのだが、
少なくとも私や身内の住んでいる市区町村の状況を見聞きするにつけても、
そのような計らいが実現している気配は、いつまでたっても見られない。

「昔はレントゲン車両が企業や学校を回って健康診断をしたものだった」
「巡回健診だって往診だって一般的だった」
「今でも献血車両はある」
「なぜやらないのか」

私の考えの及ばぬ不都合があるのかとも思ったが、
医療従事者側も、
「専用車を往診スタイルで患者に派遣するのが一番現実的で一番すぐにもできる、新型コロナ対策の強化」
という考えの人は珍しくない感じ……。医療機関側も守れますからね。

搬送用に特化してはおらず、中で療養させるキャンピング型でもなく、
移動検査施設として機能する車両。
いわゆるレントゲン車の、新型コロナ版です。

各自治体、市区町村が人口比率に合わせて一定数、消防車のように保有して、
PCR検査が必要な人の所まで往診に出向き、
車両で検体採取をするための車。
レントゲンも判断材料の一つとして使えるから、やはりレントゲン車を改造するのが良いのでは。

大体、「なるべく公共交通機関を使わず指定の場所に出向いてください」
というのが、無理。
これから熱中症の時期になるのに、炎天下を歩くの? 

私は今では外出時には夏場もマスクを手放せない、アレルギー持ちだから言えるが、
真夏のマスクはよほどの根性で外したら死ぬくらいの心構えで挑まないと居られない、暑くてきついです。
それで炎天下を、発熱・呼吸困難状態で歩くなんて、絵空事が過ぎる。

それで実際、新型コロナ感染が疑われる患者が、炎天下の中をマスクをして歩いて、
熱中症で倒れたらどうするんだ。
救急搬送され、新型コロナに感染していたら、感染拡大は不可避ですよ。
容易に想像がつくだろうに。
(また病気の時に車の運転をするのは、思いっきり道路交通法違反ですし、実際、危険だからできないし。)

歩いてアクセスできるはずもないほど容態がわるく、
やむなく公共交通機関を利用することになった場合には、
感染拡大の危険性を高めてしまうわけで、
発症が確定すれば、その行動すべてを洗い出し、公開。
公衆衛生と公共の安全のためには、それもやむを得ない。
……等々、いろいろ面倒事が付随する。

それらの問題が専用車両派遣で一挙に解決するだろうに。

検査や診察を受けいれる医療施設側も、
感染者用の隔離場所をつくったり、
防護したり除菌したりと手間取るから、診てくれない(診られない)ところだって少なくない。

専門の医療車両を各自治体が保有し、適宜、病人に派遣というのが、
一番、現実的ですぐにできて、手間取らない、やりやすい方法だと思うんですよ。

次のようなニュースも出てきたので、期待したいです。

https://response.jp/article/2020/05/08/334353.html
豊田合成、新型コロナウイルスのPCR検査車両を東京都医師会に提供

それにしたって、医師会に寄付された車、1台。
東京全体に対して1台でどれほどの効果があげられると言うのだ……。
むろん豊田としては良いビジネスチャンスで商品を売りこむ絶好のチャンスでしょうし、
一石投じて、良い流れをつくってくれると願っています。

現状は急遽、第2波にも備えて、
熱中症シーズンになる前に、
今あるワゴン車とかレントゲン車とか、使ってないバスとかを改造すればいいんじゃないかと。
健診車両自体は、ネオ・レントゲン車みたいなハイテクなのも今あるんです。
自治体が借り上げるなりして、そういうのを使っていってほしい。

豊田の記事の車を見るにつけても、まったく重装備ではなく、
こんな軽装備で機能的に不安なんだけど、大丈夫?
というルックスの車だよ。
ネオ屋台やキャンピングカーに改造するより、ずっと短期間で簡単に実装できるのは一目瞭然かと。

……それと。
いきなり話は変わるというか、屋台の言葉が出たから、関連(?)して。
最近、UberEATSをフードデリバリーの代名詞として使う人がいるけど、
ようは出前じゃん?
あるいは宅配ピザとかと同じ、宅配〇〇(←任意の食べ物の名)で良いだろうに。

むろん、デリバリー部分のインフラを外注していて、そこがUberEATSなのは知っている。が、
このところ、食事を自宅までオーダーできるシステム全般の代名詞として、
「UberEATS」と使う人がいるのが気持ち悪い。

店舗自体が受付をして、配達をしてくれるならば、
UberEATSに天引きされる利用料がなくて済む。利用者も、店舗側も搾取されない。

UberEATSのビジネスモデルは、一部の悪徳派遣会社と同じで、
どんなに世界規模で展開しようと、補償回避の、中つぎ料率がっぽりビジネスであり、
配達員も利用者(売り手&買い手)も、ある種搾取の餌食だ、みんなそう知ってもいる。
バンドエイドやウォシュレットのように代名詞化するにしては、少々、目障り・耳障りがすぎるんですよね。

──付記──


完売しました『みがかヌかがみ』 [か行]

中里友香著『みがかヌかがみ』(単行本・講談社)が売り切れました。
講談社によりますと、倉庫の在庫はゼロです。
現在、市場に出ているこの本(新品)にもしも出会えたとしたなら、そいつは貴重な一冊です。

もともと私の著作物の中で、もっとも少部数で出版された単行本でした。
いつか必ず在庫が尽きて売り切れるのは時間の問題であった。
出版社側にしてみたら、むしろ完売までに時間がかかった、くらいであったのかも。

重版の予定はないとのことでした。

『黒十字サナトリウム』(徳間書店・デビュー作)は刷ってくれた数はそこそこ多かったのだが、
途中で断裁処分の憂き目にあい、あっけなく絶版になった。
いっぽう『みがかヌかがみ』はもともと出版社の刷る発行部数が少なかった。
市場に出回った数としては『黒十字サナトリウム』と同じか、下手したらそれ以下の部数。

ですので、お手元に『みがかヌかがみ』を持っているかたは、ちょっとした稀少本になります。
ぜひ大事にしてください。

いまでも講談社の電子版で『みがかヌかがみ』を入手することは可能です。
──おかげで、この物語に新たに出会う読者が100%失われる、という私の絶望感はやや薄い。

ただ電子書籍はフォントが細かく指定できないから、
内容に変化はないが、フォントや体裁における微細な作者のこだわりは反映されていない……。

自分自身が、電子版で小説を読むことの苦痛が凄くて、まともにできないので……
人に自分が苦手なことを勧めることがあまりできない。
コミックならば、私は電子版でも問題なく楽しめるんですが。

あ……でもコミックであっても、電子書籍の存在前に描かれた漫画を電子版で読むと、
すっごい読みにくかったりして、
でも紙では復刻されてなくて、
あぁ……となることも少なくないなあ……。

──藤田貴美(敬称略)の漫画とか……相当好きだったので、
電子版で読もうとしたら読みにくくて、びっくりしたんだよ……。
電子版は漫画であっても、作品によって向き・不向きが本当にあるのだと実感した。

でも皆が自分と同じく電子版に抵抗感があるとも限るまい。

いずれは『みがかヌかがみ』紙書籍版の救済方法も、
黒十字~のように、考えていけたらなあ、と思っております。


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観光バスと駅遠マンションの現状ベストなビジネスマッチングを突如提案する [か行]

NHK日曜深夜にやっているアニメ、『映像研には手を出すな』を、
「勉強になるなー(棒)」と比較的冷淡な目線で見ている。
見ることがやめられないのは、時々──わかる、それ現実社会の真実──と頷きたくなる切れのあるツッコミが、メインキャラの口からまれに飛び出すからである。
映像やアニメづくりの過程、ロボットへの思い入れや音作り、そういうネタより、私にとってはメインキャラ(というか作者?)が社会をどういう視点でとらえているか、いきなり垣間見える台詞に出くわすのが新鮮で楽しみなのだ。
(5話、6話、8話のエピソードは面白かった……)

今のところ一番グッと来たセリフは、第6話。
自作アニメ映像にSEをほどこす高スペックPCを、3万2000円という暴力的な低価格で情報技能研究部から買いとる話をつけてきた映像研。プロデューサー的役まわりの金森部員の手腕なのだが、
「(情報技能研究部の)彼らいわく、新しいPCを組むために、高スペックPCだろうが処分しつづけたいらしいです」
「マンション建てたいゼネコンみたいじゃな」

マンション建てたいゼネコンみたい……なにそれ……超わかる。
浅草さんのこのツッコミ、素晴らしい……。
そもそも『映像研には手を出すな』初回、べつにこれを見なくてもいいか……と流していたとき、
──あの人はどこぞの財閥のお嬢様だという噂ですよとかいうセリフに対して、
「財閥はGHQに解体されたろ」
浅草みどりが真顔でツッコミを入れた、その瞬間わたしは視聴継続を決めた。

新型コロナ流行で、トイレットペーパーが不足気味で、国内にトイレットペーパーは充分に在庫があるにもかかわらず市場ではからっぽという状態が続き、
「買い占めじゃないんだ、ちょうど買おうと思ってた頃合いで、今ほんとうに緊急に必要なんだ」
という被害者が当然出た。
そんな彼らに対して、「災害大国ニッポンなんだしトイレットペーパーくらいストックしとけよ常識だろ」論者がけっこう居たのを、私は目撃した(現実社会でもネット上でも)。

トイレットペーパーは置き場にスペースを食う。使わない人は皆無であろう生活必需品。
一個一個その都度買うより、大きいおまとめパッケージのほうが、お買い得度が高いアイテム。
購入個数や購入のタイミングは個人や家庭によるし、居住区域によってもおそらく異なる。
「タワーマンションに住んでいて、一階がコンビニだから、夜中でも安全にトイレットペーパーを購入できるんですよ」とかいう一定層はめずらしくもなく存在するし、そんな彼らはトイレットペーパーが切れるぎりぎりになってから不足分だけ買い足すのが常識で、むしろまとめてストックしておくなんて都会のスペースは高いんだから、コストパフォーマンスとして無駄が多い……という道理が通るのだ。

そんな「都会的な」考え方を猛烈バックアップしているのが、大手ゼネコンおよびその開発者(デヴェロッパー)である。災害続きで自治体やら政府やらが「日用品のストックを!日用品のストックを!」
そう、しつこく啓蒙しているお膝元で、大手ゼネコン&デヴェロッパーは、駅から近い狭小高層物件──物置や押し入れどころか、クローゼットすらない部屋を圧倒的割高価格で馬鹿みたいにつくりまくって、提供するようになっている。

(参考までに)
『東京の新築マンションがどんどん狭くなる事情 3LDKでも50㎡台、収納や書斎が部屋外の物件も』
https://toyokeizai.net/articles/-/335115
2020/03/09の記事

そんなゼネコン&デヴェロッパーが全面的におすすめするのが、遠隔地トランクルーム(有料)の利用であり、あるいは断捨離およびミニマリズム的生活。スリムとかスマートとかいうキーワードでウサギ小屋を提供する。
ほんと血道をあげているよね。

新型コロナ流行前であったが──「2020年オリンピックを機に、昨今異様に高騰化している都内新築マンションも価格が軒並み下がってくると聞いたことがあるんです……」
不動産関係の人と話す機会があって、そう水を向けたところ、
彼らはゼネコンと運命共同体でもあるし(元をただせば同じグループ内の住人だよね)、
「いえ! 駅から近い便利なエリアは今まで以上に価格が高騰します。逆に少しでも不便な立地はふるいにかけられ、仮に一等地といわれる田園調布であろうとも、駅から距離があれば急激に価格が下落する。二極化がよりいっそう顕著に加速するはず。良い地域はますます競争が過熱するので、買いたい人は今が絶好のチャンスです」
ちょっとググれば東洋経済あたりでもそういう記事にガンガン出くわしたから、
(まあそうなんでしょ……?)

大手ゼネコンさんは市場のニーズに応えているだけ。市場の希望をかなえたいだけ──。
そういうスタンスを取るが、より効率的に金儲けするためにマンションは利潤効率が高いから無節操に建てるんですよね? 高騰化させるための理由付けに忙しい。さもなくば「ゼネコンの仕事が無くなると日本の経済が破綻するんですよ」と(……だからオリンピックの次にはカジノ施設……)。
日本全国津々浦々、橋やトンネルがどんどん老朽化しているのが問題になっていて、津波対策等もあり、大掛かりな大事業は実は山積しているはずなんだが……。

私の中でゼネコン全般に対する猜疑心が抜けないのは、時には劣悪な土地に盛り土して、土着の地名をキラキラしいのに改名して、新興住宅街として住居を建てて、集中豪雨でみんな流れて死者が何十人と出ても「天災だから」で逃げ切ったり、レオパレスをはじめ耐震強度を偽装しているのはさほど珍しくもないのか、なにしろ偽装屋連中が業界からその後、締め出しを食うことは全くない。何食わぬ顔で今まで通りに居つづけられる業界だからです。そりゃ胡散臭く感じるのもやむないでしょ……。
無論ピンからキリまであるはずだが。

たとえば私の住んでいるマンションでもね……管理会社の評判は悪くなく、大規模修繕など経てきて、これまで大きなトラブルもないが、各戸設置されている消火器の交換が、おざなり。
10年前に住民側が、利用期限から1年が過ぎてもなんの連絡もないので催促した。
ただちに消火器の全戸交換のお知らせがまわって、新品に入れ替えられた。
古い消火器は下手すると爆発したり、いざという時にちゃんと使えなかったりする。簡単にそこらに廃棄できる代物でもないので、きちんと回収・交換をしておかないといけない。その交換はマンション住民が毎月支払う管理費積立金から支払われた。問題ない。

で、10年後にまた今回。使用期限からさらに一年過ぎた時点で、住民側が業を煮やして催促。
またすみやかに全戸交換となった。言えば交換してくれる。言わなければいつまでもやらない。
積立金が足りないわけでもない。

私はアレルギー用のエピペン(緊急時用アドレナリン注射)を処方されている。エピペンは購入したときにサイトに登録すると、期限が切れる前にリマインダーが届く。葉書でも、メールでもくる。かかりつけ薬局からもリマインドがあったんだっけかな。

かかりつけ医いわく、
「エピペンは処方されているにもかかわらず、最も使われない薬ナンバーワン。万一のためだからそれでいい。使わないでいられるのが一番理想。でも万全の状態で必ず持っていなくてはならない。それこそが緊急時用」
本当にその通りなんです。

消火器も同様。使わないのが普通、使わないのが理想。
かといって、なくてはダメだし期限が切れていてもダメ。いざという時、万全の状態で使えなくては。
それこそ管理会社が管理して、住人側にリマインドしてくれていい案件だと思う。

ゼネコン側が住民の安全第一とか利便性第一とか、市場のニーズにこたえたいとか、新しく洗練されたライフスタイルを提案したいとかいうのは一種の詭弁で、そんな彼らのいち推しする「理想の最先端な暮らしぶり」が、今の現実社会で事実、不可避となっているストックを拒んでいる。
ゼネコンがなければ我々は物理的に生活できていないほどに、ゼネコンの影響力は多大でもあるので、国家の推進する方針との矛盾が。結局現状その矛盾が私たちの生活をおびやかし、人によってはトイレットペーパーのストックがない。

以前は「駅が近いと便利になるなら、駅を作っちゃおう」とか、「新しいバスの停留所を作って、路線バスにきてもらおう」とか、そういう展開が一般的だったらしいんですが。今は電車もバスも経済的な効率重視で、縮小路線が加速気味。

さまざまな理由から「車離れ」で自家用車保有率は下がっているし、おまけに廃線等で交通の便がいつ悪くなるかもしれぬ。高齢者は車の運転も危険となれば、なるべく駅に近い都心部に住んでおきたい……という脅迫感もそりゃ煽られて当然です。

で、今回わたしは思いついたのだ。聞いて。
(……いや読んで)!

新型コロナ流行のせいで観光客が激減し、観光バス業界が各地で倒産の危機に瀕している。
駅から近い狭小物件マンションが、日用品ストックもできないほどなのに需要が加速。いっぽう徒歩圏内ではないマンションは市場価値が下落一辺倒という現状。
この問題を同時に解消できまいか。

駅から遠いマンションは広いし、一坪当たりの単価でいうならお買い得なのだ。
駅前の喧騒や交通量から少し離れて空気もきれい。
反面、駅および商業施設等へのアクセスが悪くて、不便。
だったらホテルのようにマンション自体がシャトルバスを手配できないか?

基本的にマンション住民だけが利用できるバス。
運行状況は戸数にもよるだろうが、たとえば1時間に2本、朝7時頃~夜9時頃までとか。
昼間は病院や商業施設もぐるっとまわる路線も作る。

ゼネコン側の懐に効率よく金銭が入る仕組みがないと、ゼネコン系マンション管理会社から、この手の提案を積極的にしてくることはまず絶対ないだろうが。
マンションの積立金って実はけっこうたまっていて、住民組合は使いあぐねて、とりあえず管理会社の言うままに共有設備をむやみやたらと頻繁にアップデートしている部分も少なくない。
だったら……。

既にゼネコン側が新築分譲マンションのシャトルバス提供を売りにしているところもある。
→「シャトルバス - 住友不動産のマンション』
https://www.sumitomo-rd-mansion.jp/shuto/koganeikouen/access03.html

平日は終電まで対応していて、土日は休みのようですね。なるほど。
このサイトを見る限り、シャトルバスのあるマンション住民の声は大好評ではないの!
実際、上記の立地も、駅からの距離だけが最大のネックで、周辺環境はかなり良い。
シャトルバスが無ければ、駅まで自転車圏内といったところ。

こんなふうに大手有名ゼネコン側がシャトルバスのサーヴィスを提供して新規分譲している例もあるのを鑑みれば、シャトルバス誘致は、無謀や的外れではまったくない。充分実現可能なわけだ。
おそらくは住民の積み立てる管理費内でやりくりできる。

中古マンションで駅から若干距離があり、今では市場価格も下落気味なマンションは全国にごまんと存在しているはず。そういう所はマンション住民(管理組合)側から民間のバス会社にシャトルバスの業務を依頼してみてはどうだ……!
住民の利便性も上がり、不動産の市場価値も保てて、ひいては二極化の緩和に繋がらないかな。

管理費を支払っているマンション住民は無料で乗れる定期を使い、場合によっては近隣の住民や来訪者が利用したいときは、一定金額を払ってもらうとか。運営の仕方は色々あるだろう。

倒産が危ぶまれている観光バス会社側も、観光業での見通しがたたないならば、駅から離れたマンションに新規営業をかけてみては。
旅行者の巨大な重たいトランクを毎回バスの横っ腹に積みこむ作業もいらない。
夜間の長時間運転からも解放される。朝と夜とでシフトも組める。観光や路線バスほどハード業務ではなさそう……。

試運転でマンションと駅とをつなぐサーヴィスが定着すれば、観光客の数に左右されずに生き残れる。みんな便利になるしWinWinじゃないか。
これが現状、私が思いつくベストなマッチング。

「生き残りをかける観光バス業界の新たな模索」とかいう番組が放送されたりしてさ、駅から離れたマンション住民の足となる、もと観光バス業界のシャトルバスが取り上げられたりして。
この我慢の時期から転じて、いつしかみんなが少しでも安堵して、不都合を強いられずに暮らせるようにならないかな……。

追記
⋆消火器がずっと消化器と変換ミスになっていた……直しました。


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気分転換に [か行]

「騎士たちの踊り(ソヴィエト・プロコフィエフ)」──『ロミオとジュリエット』の一幕を、
たまに気分転換の一つとして、繰り返して視聴します。
抜粋して視聴できるの、ほんとYoutubeさまさまである。
手っとり早くアートな異空間にトリップできるのだ。

同じ一幕を同じ曲で踊っている、同じ物語なのに、演出に各国の個性が滲み出る。
それでもいずれもジュリエットが登場すると、
ジュリエットだ!……と一目瞭然なのがバレエの凄味。

〇Prokofiev Romeo and Juliet Dance of the Knights

https://youtu.be/MDHc40aT_AY

英国。たしかThe Royal Balletのはず。
ペアになって踊る男女の釣り合いが取れていて、男性がリードする正統派なダンスに映る。
特権階級である紳士淑女の夜会っぽく、騎士というよりは、お貴族っぽさがすごい。

〇Dance of the Knights ( Capulets) - Romeo and Juliet Ballet

https://youtu.be/ISC-8DEooTY

フランス(Paris Opera Ballet)
演出がかなり独創的で、途中、花いちもんめ風になったりします。
女性が主導権を握っている雰囲気のダンスで、
5:37~の展開が、あぁ……おフランスの騎士「シュヴァリエ」だなぁと。
いかにもなフランス香が芬々としているのだ。

〇Romeo e Giulietta - Danza dei cavalieri (Teatro alla Scala)

https://youtu.be/EH-hrXuosVQ

こちらイタリア。衣装や色味等、トランプカードの絵札から出てきたかのよう。
曲のテンポで言うならこのイタリアヴァージョンが、私には一番しっくりきます。
バレエの演出としてはParis Opera Balletが飽きがこなくて好きかもしれない。
最初に圧倒されたのは英国版だったし……。
単に好みでいっても甲乙がつけがたい。

Youtubeで探すと「騎士たちの踊り」のこのバレエの一幕は、
ほかにも数えきれないほど出てきます。

私はバレエは全く詳しくない上に、格別に大好きというほどでもないので、
ぽいわー、ほんとお国柄がそれっぽいわー、この曲の雰囲気ゴスだよねえ、
といった調子で、気ままに視聴しています。
気分転換ばっかりしている気がしないでもない……。


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小龍景光@東博備忘録 [か行]

刀剣界隈では現在、京博近辺が大層にぎわっている御様子。

さすがに京都に行くのは色々と無理……な私は、
10日ほど前の11/1木曜日に、東京上野の東博に行ってきました。
国宝太刀・小龍景光にまみえるためであります。

近くで恒例の野暮用があったので、
帰りに寄れたら寄るぞ……自分の体調とか天候とかと相談して、
行けたら行くんだぞ……と、精神的にスタンバっていたのだ。
行ってみたら、すんなりと行けて、すんなりと見れ、ラッキーでした。
午後4時半くらいだったかと思いますが、全体的にかなり空いているほうだったかと。

刀剣・小龍景光は、今春に大般若長光が展示されていたブースにありました。

その前に、まず来派の太刀が目についた。
来派といえば国宝の明石国行が刀剣美術館にあって、
(現在は確か京都まで出張してるんですよね)
2016年3月に、私はまだ古い建物だったころの初台にあった刀剣美術館まで見に行った。
その時の印象が、大胆不敵でふてぶてしい印象でした。

うお、これ来派だね! 
と、今回、姿を見てすぐにわかる感じで来派の太刀が展示されていました。
なにが来派っぽい特徴として私に認識されうるのかが、自分でもはっきり言いきれないのだが、
全身の姿と、切っ先のサイズ感と形、その角度だろうか。

粘り強そうな全身の姿に引きかえ、
切っ先が、小口で、きっちり、さっぱりとしている印象。
もっというと、来派の太刀の切っ先に、いつも私は、塩(ナトリウム)の結晶みを感じる。
(刀剣については様式美的な決まった表現法があるし、
あくまで私が受けた印象なので、こういう言い方が果たして適切なのかはわからん。)

IMG_20181101_162546.jpg
DSC_0574.JPG
(クリックすると拡大します。)

で、目当ての小龍景光。
こちら国宝です(クリックすると拡大します)。
IMG_20181101_162619.jpg
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『刀剣乱舞』のゲーム上の付喪神としての姿は、相当、華やかで、
スーパー美麗で、スラっと線が細くて、腰もほっそいモデル体型。
夜な夜なダンスパーティとかに呼ばれてそう。
(なお『刀剣乱舞』では、小ではなくて小表記だ。)

そのくせ性格はつかみどころのないスナフキン風。
清廉潔白な主を求めているし、
矢立(筆記具)や羅針盤を持ち歩いているという図録の説明とか、
内番での台詞によると、農作業も厭わないし、実際のところはアウトドア系ですよね。
羅針盤を持ち歩いているのは、まさか無茶苦茶、方向音痴だからとかではないだろう……。

刀に限らず、国宝の品というのは、異様な存在感であったり、
精彩を放ちまくって、周囲からあきらかに浮いているケースが少なくないと思っている。
が、小龍景光は、ぱっと見、派手ではありませんでした。
少なくとも私は、ザ・国宝という印象をすぐに抱きはしなかった。

細身で端正だなという第一印象でした。
刃文も繊細。
どちらかというと、ほっそり華奢な存在感。

来歴が、
──楠木正成が持っていて、その後、農家などにわたりもしたが、
井伊直弼の所有から桜田門外の変を経て、
明治天皇に献上される。そして皇室御物から戦後、東博に──
という、なかなかな波乱万丈振りなので、
その歴史的価値を鑑みての、国宝なのかな……?

DSC_0578.JPG
(クリックすると拡大します)

茎と刀身の身幅がほぼ同じに見える。
付喪神としての姿のスラッと背が高くて細身なのも、伊達じゃないんです。
要するに本体が細いのだ。

生で見ると、
この茎寄りの刀身に掘られた小さな倶利伽羅龍が、
龍というよりは、龍の骸骨っぽくみえる。
つうか龍の標本、もっといえば人間の背骨の標本を思わせる。

小さい龍が、小さい三鈷杵(さんこしょ)に留まって絡まっている形をしているのだが、
龍の足もとが、葦に留まっているヨシキリとかの鳥っぽい。

東博HPのこの写真がわかりやすいだろうか。
https://www.tnm.jp/uploads/r_collection/LL_C0012572.jpg

「覗き龍景光」とも呼ばれていると、『刀剣乱舞』のゲーム上で本人が語っていますが、
たしかに龍の彫り物は数あれど、ちょいと趣向が異なるというか、
小さい彫り物だけれども、特徴的でした。
「覗き龍景光」と呼ばれている所以はおそらく、これ、
ハバキを外した状態で展示されていることからも分かるように、
上の写真の来派の太刀のように、本来、金のハバキを装着して使う段になると、
龍がほとんど隠れる。(そもそも龍の下半身は茎部分にさしかかって彫られていますしね。)
それで、さも龍が覗き見ているような格好になるからだと、想像つく。

で、その裏側。
東博の刀剣ブースは、基本的に一面しかまともに見られない。
せまい裏側に身を滑らせて(空いていたし)裏側を見ますと、
梵字が!

『刀剣乱舞』の図録で、
小竜景光の靴底(ミリタリーブーツの裏側)に梵字があるのが載っていて、
芸が細かいな!
と感じ入っていたのだ。

そもそも小竜景光のイラストレーターさんの図録ページ、
内容が濃すぎて、私には嬉しい悲鳴なんですよ。
情報が充実しまくっていて、ありがとう何このページこのアングル最高じゃん、
と、眺めまわしていたのであったが……。

刀身裏側の、刀の茎近くの彫り物を見たとたん、
「あ! これ見たことある! あの靴裏の梵字のネタは、これか!」
と、俄然テンションがあがりました。

もちろん写真に撮ってはみたが、裏でライティングも不十分で、てんで撮れていなかった……。

小龍景光の美しい存在感を実感したのは、
撮った写真を、あとできちんと見たときです。
写真映りが良い。
写真だと実際よりも大振りに見える気がするし。

ぞんざいに2枚ほどしかシャッターを切れなかったのに、
その2枚がこの出来なので、かなり写真映りが良いといえる(当社比)。
長船派は概して皆、刀身の写真映えが良い気が。

東博は、一階の出口近くで、
アイヌのマキリなども展示されていました。
いつもアイヌ文化のところは、なるほどねーへー……と、わりと流して見ていたのだった。
今回、漫画『ゴールデンカムイ』を読むようになって、
展示物がまったく違って目に映るようになった。

ラピュタでムスカが手帳を繰りながら碑文字を指でたどって「読める……読めるぞ……」
というシーンがありますが、あれと同じで、
(マキリが何か、どう使われていたか、今の私になら分かる!)

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(いずれの写真もクリックすると拡大します。)

東博は英語と日本語のキャプションの非対称ぶりが、
どの作品でも、いつもけっこう甚だしいのが目につく。

DSC_0590.JPG
(クリックすると拡大します)

英語のキャプションを読まないと、マキリは男女ともが携帯したとか、
その彫り物はおもに男性がこしらえたとかが、わからない……。 

二階では、世界文化遺産になった『長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産』
の特別展示がありました。
狙って行ったわけではないが、
見ておきたかった展示だったので拾いもの。

信者が隠し持っていた小さいメダイ(メダル)の数々とか、
踏まれてすり減って、ところどころツルツルになっているマリア像の踏み絵など。
大半が長崎奉行所の押収品です。

キリスト教文化が日本の地で「密教化」して、
最早キリスト教なのか、隠れ蓑にしている仏教なのか、
どちらともつかぬ一種異様な「隠れ」に変貌を遂げていった片鱗を見られた。

歴史がそれを「まがいもの」として断ずることも出来ただろうし、
なにしろ「隠れ」なのだから、展示物に派手さは皆無。
日陰の産物特有の、うすら寒さも伴います。

その日陰ぶりが世界遺産ともなった肝でもあり、醍醐味でもあるわけで。
興味深いエリアだと思うのだが、まるで人目につかないがごとく、
部屋に入ってくる人もほぼないし、誰か来ても素通りで、ガラガラだった……。

日が短くなるこの季節、
5時半ごろに東博を出たら真っ暗でして、
建物にプロジェクションマッピング(?)が。

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音などの演出はなく、ひっそりとライトアップされているといった程度なのが却って趣があった。

カバンに経口補水液 [か行]

カナダは西海岸にしか居たことがありませんが、
そこでの夏っていうのは、大体、今の日本くらいの感覚がほぼMAXで。
緯度も高いんで、今の日本の、
ああ明るい、日が長い、行動時間がいっぱいあるね!
湿度はまだまだ低く、爽やかな風が吹き、
若葉からの木漏れ日が眩しいわ、ああ夏ね、暑いけど夏ってすてきね!
スパークリングワインが美味しいもの。
みたいな季節感なわけなので。
(実際の所、日の長さはもっとずっと長いですけれども。)

……夏、割と好きだ! いい季節じゃないか。
そう、気付いたのは初めてカナダで夏を過ごした時でした。

日本の夏が尋常でなくしんどい。
最早、無軌道な苦行。日本人、いや日本住みって気の毒なんだな(自分も含め)!

日本は四季があって美しい国なんです、そう習ってきているわけなので、小学校で。
地球上のどこにいっても四季は有るし、
なかでも日本の四季はあまり性質(たち)の良くないタイプの四季だぞこれ、
知らないと思って勝手ぬかすな、と悟った。

日本の夏より、厳しい夏を展開する地域もあるだろうが、
日本の夏でも死にかけているのに、
海外の酷暑地域で暮らすのは、
医療方面や電気事情など考慮すると、私にはリアルに困難なので、
日本以上に苛酷な夏の世界に行ったことはない。

今くらいの爽やかな夏の気配を吸いこんでいると、
あ、今ちょっとカナダっぽかった、この風はカナダっぽかった、
あるいはアメリカ西海岸の朝の空気だ。
この調子ならまだまだいけるぞ、と晴れやかに勘違いしかけます。

日本に帰って来たばかりの頃、
家族みなが天気予報をものすごく真剣にチェックしていて、
テレビが天気予報を流しているときに、話しかけたりすると「ちょっと黙れ」と気色ばむので、
どこかおかしいんじゃないかと、やや軽蔑していた時期がある。

お天気の会話なんて、当たり障りなく場をしのぐための、
ぬるい発声練習みたいなもんだろうに、
なにを仕込んでいるんだ……と呆れていた。

カリフォルニアに何年か住んでいた時に、
日本からの手紙で、
(まだメールでなく手紙主流でした、海外版PCで日本語フォントがまず使えなかったですよね)
「世界の天気をチェックするとカリフォルニアは、常に晴れだね」
と来ることが多かった。
実際の所、ちらほら曇ったり雨がふることもあります。ごくまれに嵐も来た。
が、おおむね晴れです。
天気予報なんて日常的に、余程の暇人ぐらいしか見なかった。

だから傘は携帯しないし、
日本製のほんのちょっと小洒落た8本骨の折り畳み傘を使っていると、
目聡い見知らぬアメリカ人からも、
なにそれかわいい! 素敵! どこで買った? と大好評……。

日本の素敵な洋傘、こと婦人用の傘は、
かなり世界随一の可愛さを誇れるレベルで、サイズや軽さもヴァラエティに富んでいるので、
カリフォルニアはダメだと思うが(車移動だし滅多に傘をささない)
雨の多い地域に、ビジネス展開したら、好評なんじゃないかなあ……。

†黒ミサTOKYO†初ライヴ・ヴューイング感想 [か行]

新年、明けてますが先月のHydeの†黒ミサTOKYO†について。
まあ年明けというのは節目ですが、
時間でいうなら一箇月も経っていませんで。

Hyde黒ミサのライヴ・ヴュの感想。
客観的なレヴューではなく、100%わたしの主観です。

又、今までもそうだったが、HydeとかハイドとかhydeとかHYDEとか、
表記ゆれがあります。そこらへん、あまり厳密に意識していません。
ラルクの時はhydeで、ソロの時はHYDEとかHydeとか、暗黙のルールがあるようだが、
HYDEという本の中でハイドが、
あんまりそこらへん厳密に意識してるわけでもないっぽいことを書いていたと思う。
それにあやかり、今までもそしてこれからも、
単純に変換が一番最初に出てきたものとか、
読みやすい字面のほうとかを選んでますので、悪しからずご理解くだされ。

さて黒ミサ。
いかにも、ザ・黒ミサというゴシックテイスト満載、
沢山のキャンドルの明りが燈っている舞台上の演出で、テンションが上がる。

ドライアイスが舞台上の足もとにヒタヒタと霧のように覆ってきて、
まずは楽団が登場。
9割がた女性で、黒のドレスを着ている、すらっとした印象の面々。

ダブルカルテットを含むオーケストラの演奏をバックにHydeが歌う、
という情報で、そのとおり。

……なのだが、なんというか私は勝手に、
玉置浩二のシンフォニック・オーケストラ・コンサートのようなものを想像していたのである。
つまり国内外の老若男女問わぬ、
黒い着たきり風のオーケストラ衣装を着こんでいる以外は外見ごった煮の演奏家、
かれらとのガチのオーケストラ対Hydeの競演バトルみたいな印象をもって、
黒ミサに来ていた。
ですので、一瞬、脳内でバグ修正が入ったのは事実。
雰囲気重視寄り……なのかな?

Hyde登場で始まります。

なにぶん私、ライヴ・ヴューイングで鑑賞するのが初めてでして。
これまでは、
(ライヴ・ヴューイングの値段って、ライヴのDVD、ことによるとブルーレイも購入できる価格だし、
円盤なら何度でも見られるから、ライヴ参戦が無理だったら、DVD購入したほうが賢いよ……)
と思っていたのである。
実際に行けない立場になってみないと分からんもの。

精神衛生上、「今、このときにライヴやってるのに……あああああ~」
と思いながら数時間ストレスに苛まれて過ごすくらいなら、
近場のライヴ・ヴューイングで、生中継で大画面で鑑賞したほうが絶対健康にも良い、
という結論に至ったのだった。
近いし、気楽だし、音響も最高で、これはこれで捨てたもんじゃない、
捨てる神あれば拾う神ありだわ……という発見がありました。

今までラルクの面々がライヴ・ヴューイングに向けてコメントを送ったり、
ジェスチャーしたりするのを、
「これって、おそらくはライヴ・ヴューイングの人は嬉しいんだろう……」
若干遠巻きに見ていたのに。

Hydeがライヴ・ヴューイングについて言及すると、ほんと、嬉しいものなのね。
ライヴ・ヴューイングについて言及したのは一回だけだったと思うけど、
それを丁寧に胸中にしまって、決して忘れないからね。
たとえるなら「鍵アカから影ながら応援してる」みたいな、
不完全ながらリンクしている気分か。

ライヴ・ヴューイングだと、ライヴの時は映画館でも全員立って臨む、
と聞いたことが有った。
さすがに今回は、黒ミサ会場生参加の人たちも、
全員着席で臨む、おしゃれめコンサートなので、
立ちはしなかったが。

……拍手とか……する?

映画館の面々は、拍手なども一切しないで、静かに見ていました(むろん私も)。
おそらくだが、自分を含め、皆、やや不慣れで様子見状態だったかと。
ラルクは近年、大きなライヴのときには必ずライヴ・ヴューイングがありますが、
Hydeの黒ミサのライヴ・ヴューイングは、今回が初めてだ。

ハイドの声はダブルカルテットの弦楽器と良く合う。

弦楽器(ことに私はチェロびいき)は、
楽器の音色に、鼓膜と横隔膜とを共振させて聴く感覚があって、
大変、心地良い楽器なのだが、
ハイドの声も、ハイド特有の声音で歌うと、
鼓膜と横隔膜が共振するような特有の心地よさがあるんですよ。

かねてより、弦楽器と合いそう……と思っていたのだが、
はたして、その通りだった。

HydeのMCが合間合間に入ります。
「黒ミサというと悪魔を召喚するミサなわけですが、この黒ミサはそういうのではなくて……」
という前振りで、
え……若干わたしは拍子抜け。

もちろん悪魔を召喚するだなんて思ってませんし、されても困りますが、
これもまた勝手な私の期待だったのだが、クリスマスイヴ・イヴの23日と、
クリスマスイヴの24日に黒ミサをやるなんて、ゴシックで攻めてるなあと。

だから“前半はきっと、まがまがしい感じの曲で攻めて、だんだん盛り上がって、
おどろおどろしさが、ついには美しく昇華される展開で浄化され、お開き”
……という聖堂に入る前の、教会の強面の雰囲気と、
一転、中に入るとステンドグラスの空間でじっくり癒され、
教会を去る。
そんな体感を、曲で再現してくれるのかなあと、期待してたんですよ。
あくまでも黒ミサ的スタイル重視路線なんだな……。
了解した。

Hydeの声をメインに、弦楽器やらフルートやら。
嫌いな音や、嫌いな音楽は一つもなく、
一種の宗教曲みたいな癒し効果は確かにある……ずっと聞いてられる……。
前半はそんなでした。

木管はいましたが金管楽器はゼロですし、
オーケストラといっても、室内音楽風なアレンジ。

時々、画面で抜かれる鍵盤の上の楽譜がタブレット仕様だったのが、
やけに目についた。
チェロの弦が何を使っているのかが、個人的にはかなり気になり、
弦の先端の留め具の色に、目を凝らしてみたりもした。
(赤いのがチラ見えしたから、スピロコアかな……)

Hydeが英語で歌った曲は、私自身も大好きだったが(戦場のメリークリスマスの曲)
ややモヤッとした。
今回、けっして多くはない曲数の中で、
うち1曲に、英語の歌詞をわざわざつけてハイドが歌っただけあり、
思い入れも深いのだろうが、
なんていうか、どうせなら日本語の曲のほうがHydeの伝える力がやはり強いし、
そっちが聴きたいという欲求が……。

わたしは曲中に英語のフレーズが混じるのは、とても好きです。
英語のほうが伝わりやすいこともあるし、英語のほうが音やリズムに乗せやすい部分もある。
むろん日本語のほうが伝わりやすいところもある。

まるっと全部英語だったのが、ちょっと……。
私自身、英語でご飯食べてる部分も無きにもあらずで、
アンチ英語では全くないし、
海外向けのライヴとかならわかる。

今回ひっそりとファンの為だけに行われるコアな黒ミサ、
というテーマな感じのコンサートだったこともあり……。

Hyde、MCでVampsの活動休止について短く言及。
「それから、もっとどうにもならないバンドがあってですね(笑)」
ラルクのことだ……ラルクのことだ……ざわざわざわ……

Ken登場。
ラルクのギタリストのKenが登場。
今回、この共演を私は待っていたんだよ。

Kenが出てきたときのHydeの嬉しそうなことといったら!
Hydeにめっちゃ嬉しそうな顔をされて、
Kenがたじろぎ気味に照れて、やや、おずおず挙動不審なりかけるところが、
二人して壇上で笑いが止まらないところが、
「ああこの二人は絶対に大丈夫だ」と。

これが良い距離感なんだろうなと、しみじみ思いましたね。
ラルクはずっと続くに違いないと。ラルクは4人でラルクだけれども!

二人で壇上で絶妙な掛け合いして、二人だけでめっちゃ笑ってて、
バックのコンマス以下誰一人としてクスリともしていなく、
「笑ってるの僕たちだけですよ」と言ってるのが、
ああ、このノり、ラルクだわ、嬉しいわ……。
わたしだけでなく、会場のファンほぼ全員がそう感じていたに違いない。

実際、黒ミサコンサートのあと、
映画館のトイレの行列で、前後の女の子がずっと二人について嬉しそうに再現しあってたし、
それを耳に入れながら、大半が「皆まで言うな、わかっている、完全に同意」
という顔をしていたから。

Ken、今回はゲスト出演なので、下ネタは完全に封印でした。
外見が若干、葉加瀬太郎に似てきたのが、なんだか心配だった。

で、ハイドがラルクの曲を、
Kenのギターと、オーケストラ演奏で歌いました。8曲ほど。
やはりHydeはラルクの曲を歌っているときが一番輝く
異論は認める。
(しかし私も容易にこの主張を曲げるつもりはない。)
だってラルク曲で、とたんに舞台上が輝きましたし、華やぎましたから。

100%主観による偏見かというと、そういうつもりでもなく。
やはりHydeがつくる曲や、Hydeが選ぶ曲は、Hydeが歌いやすい曲なので、
音域が似てるんですよ。
どれも大好きな曲なのですが、
さすがにずらっとバラード系が並ぶと、メリハリが若干うせる。

ラルクの中でもKen曲は、Hydeの音域の可能性を知ったうえで、
ひょっとしたらHydeにも歌いにくい、
Hydeじゃないと、とてもじゃないけど歌えない、という高低差の緩急で出来ている。
化学反応でワン&オンリーのクオリティの高さになるんです。
(やったのはKen曲だけではなかったが、引き立て合うのよ。)

今回は『黒ミサ』
Ken曲の「花葬」を待っていたが、
……なかった。
ラルクのライヴでも、アコースティック・ヴァージョンの「花葬」がすごく良かった。
オーケストラに合うだろうなあ。
ラルクの代表曲でもあるから、封印していたんだろうか。

最近のラルクのKen曲で、ダークなナンバー「Everlasting」
陶酔感をもたらす曲調なので、『黒ミサ』にもぴったりだろうと超期待していたのだが、
こちらも演奏はなかった。

選曲は黒ミサというよりも、
クリスマスシーズンにちなんだ雪の曲、冬の曲がメインであった。
(前半にやったGlobeのDepartureも御存知、雪と冬の歌詞。)

Hydeは雪が大好きで、
いっぽうKenは雪とか、うわ、じゃまくさ系だし、
そのことは今回、MCでも語ってました。

「叙情詩」を歌ってくれたのは、私にはとても嬉しかった。
「MY HEART DRAWS A DREAM」では、
左隣に座っていた見知らぬお姉さんが静かに泣いておられた。
「Forbidden Lover」は『黒ミサ』に然(しか)り、という相応しさで、良かったです。

個人的に欲を言えば「My Dear」とか「Sell My Soul」とか、
黒ミサのテーマにも合うし、
今回のようなクラシックな楽器に合う、じっくり聴きいりたいバラードなので、
聴けたらよかったな。
ソロ曲なら「Shining Over You」*を……。
出だしが弦楽器だし、最高だと思うんですよ。

ライヴ・ヴューイングも捨てたもんじゃないと感じていた私ですが、
Kenが出てきて、ラルクの定番曲を立て続けに披露したときには、
ああ、なんで私は会場にいないんだろう……
不完全燃焼感が募りました。

普段はマイクスタンドをぶんぶん振り回しているから、
マイクのコードの扱いに不慣れなハイドさん、
終わりに、
「ああ、もうちょっとやればよかったな……(余力がある、皆もついていける顔してる)」
と、こぼしていたのが印象的でした。

*



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カラオケボックスの空調はいつも調節しずらい [か行]

久しぶりにカラオケに行ってきた。

その友人とは15年くらい前には、泊まりがけで夜8時間くらいカラオケボックスにこもり、
食事もとらずジュースだけで、ぶっつづけで歌ったこともあります(無論シラフ)。

2人で交代で歌っていくわけなのだが、当時は入力も液晶画面じゃなかった。
分厚い曲集のページを繰りながらリモコンで数字入力。
間違った曲を入れてしまうミスも私は多々あり、
誤入力した予約を取り消したいがあまりに謎ボタンを押して、
友人が気持ちよく歌っている演奏をぶつ切りで止めてしまった苦い思い出も……。
いや、あれは液晶画面に切り替わりたてて、不慣れの時分だったかなあ(遠い目)。

その頃は一緒にカラオケに行く先輩もいたりと、
映画とかより趣味嗜好が分かれずに、カラオケは無難な遊びの部類だった。
今となっては、カラオケに行くのは私はその同級生とだけです。
しかも一年に一度行ったら良いほうかも……。

2時間コース。
昨今まともに歌える曲がない。
新曲を知らないとかではないんです(かつてより今の私は日本のCDをよく聞いている)。
歌える曲が激減したのは、最近私のよく聴く曲、
好きな曲の類が、いずれも難易度が高すぎる。
私レベルの素人がいきなり初めて歌って、まともに歌える曲ではないからです。
まず音域が広すぎる。
(趣味でないのに歌いやすい音域の曲を物色する甲斐性など、むろん私にあるはずもない。)

単に高すぎる曲であれば、キーを下げて設定して歌えば良い。低くても同様。
もっと高かったり低かったりするならば、1オクターブ上げたり下げたり、
自分で調節して歌うことも可能だったが、
音域の幅が広いと、その手のコテ先では太刀打ちが不可能です。

和気藹々と、2人で気楽な罰ゲームをこなしているみたいな空間に。
罰ゲームといっても双方が同じ条件なので、それはそれで面白い……
というか、友人はそれでも歌がうまいので良いんですが、
友人のほうは私の苦戦ぶりを聞かされて苦痛なんじゃなかろうか。
そこは長年の付き合いで、良しとされているけど。

そんなでも懲りずにカラオケに行くのは、昨今のカラオケは映像も音楽もハイクオリティで、
アーティストのPVが見られるのも珍しくない。
音程がとりにくければ、ボーカルサポートがついている。
CDやプロモビデオを流しながら一緒に口ずさむ調子で、
音の良いカラオケを気軽に楽しめる。

私も友人も、音楽全般が嫌いじゃないので、
好きなタイプの音が流れてるだけで、まあわりと幸せだし、
友人に推し曲をさりげなく布教している気分にもなる。
自分自身も、ふだんは辿りつかない、友人の推し曲を知る機会であったりも。

今回失敗したのはJoysoundを選んでしまったからです(ダムでなく)。
薄っぺらい電子音なんですね。
サポートボーカルっておいこれ、ニコニコのボーカロイドでも、もうすこし表情豊かに歌ってくれるぞ……。
おかげでメロディアスな曲も軍歌ばりなノリに。

はもりもコーラスも、ほぼ皆無なので、
大昔のカラオケで声を張り上げる感じに似て、
ほぼ自分の苦しい歌唱力だけで、勝負せねばならず、わたしは大いに悪戦苦闘。
終始、違うんだよこんな曲じゃないんだ嘆かわしい、とぼやいていた。
――これ初めて歌うから、ちゃんと歌えるか分からないから、次の曲を早めにいれて、ごめん、

今までは、わざわざ枕詞で注意喚起してた台詞だったが、
「いちいち言わずに略すけど、チェッカーズとか毎回恒例の懐メロ系以外、
全部、私が初めて歌ってみる曲だから。わざわざ言わないけど、そこんとこ頼む」状態に。

私の場合、終盤にむけて選曲が苦しくなると、アニソンに移行しがちです。
ちょっと前まではアニソンといっても、アニメで流れる部分以外を知らないと、
途中でガラッと曲調が変わって、立ち尽くすことも多かった
(座ったまま歌うので、精神的に立ち尽くす)。
最近はそんな惰弱なカラオケの歌い手のために、便利な仕様が。

アニソンに採用されている曲も、アーティストの曲として入力する場合と、
アニソン設定で入力する場合とでは、収録時間が違っている。
アニソン設定で入力すると、アニメの主題歌に採用されている部分だけが、
アニメ映像で流れる――というバージョンも多いのだ。

(アニメ映像を見ながら好きなアーティストの曲をフルで歌いたい時には、
1分45秒ぐらいでぶつ切りになって、悲しい気持ちになります。)

アニメ視聴で主題歌として耳慣れているだけの私にとっては、格好の志向である。
推しアニメへのお布施にもなりますし。
さっそく『進撃の巨人』一期、リンホラの『紅蓮の弓矢』を選曲したところ、

歌詞が出ない!

いいですかカラオケボックスで歌詞が出ないんですよ!
この曲は都合で歌詞が出ませんという旨の注意書きが、画面に出てきて、
ドイツ語のフレーズが出ないだけなのかと思いなおそうとしているうちに、
まったく一文字も、歌詞が出ないまま曲が進む。 

面喰らいつつ、

~♪
踏まれた花の名前も知らずに
地におちた鳥は風を待ちわびる
祈ったところで何も変わらない
明日を変えるのは戦う覚悟だ
屍踏み越えて 進む意思を嗤う豚よ
家畜の安寧 虚偽の繁栄 死せる飢狼の自由を
囚われた屈辱は反撃のコウシだ
障壁のその、獲物を屠るイェーガー!
ちゃらららんらんら ちゃらららんら(←出鱈目の歌詞すら浮かばなかった)その身をやきながら
黄昏にを穿つ 紅蓮の弓矢~♪

サンホラで歌詞が絵文字化されてたのは出くわしたことがあったけど、
まさか丸々まったく表示されないとは思わなんだ。
紅蓮の弓矢は好きなオープニングだったので、毎回きちんと見ていた。おかげで、
意外に歌える~あはは!
ポジティヴな私でしたが、
あとでググって確かめてみて、俄然、苦笑い。

紅蓮の弓矢
http://utaten.com/lyric/Linked+Horizon/%E7%B4%85%E8%93%AE%E3%81%AE%E5%BC%93%E7%9F%A2/#sort=popular_sort_asc

肝腎なところ [か行]

http://www.cnn.co.jp/world/35097566.html
→CNN:母子施設跡から多数の遺体、乳幼児や胎児か アイルランド

『黒十字サナトリウム』の舞台背景を地で行っている。六章にチラと出てくる第三別館に近い。
あの章の記述は、無縁仏や乳幼児の埋葬方法やらを調べていく過程で
「ありうる」と感じた設定を、練っていったわけだから、
まあ本当にありうる……わけではありますが……。
『黒十字サナトリウム』の悪名高い第三別館の設定は、
少なくとも第一次大戦よりも以前の東欧のつもりで書いていました。

いっぽうCNNの記事は、さほど昔でないという事実に引く。

アイルランドは寒村とかいうレベルじゃない、貧しい国だったわけだし、
時代背景的に、まぁ言われてみれば当然ありうる……という場所ではありますが。
――アイルランドの堕胎禁止問題は深刻ですし。(参考までに→http://www.christiantoday.co.jp/articles/11918/20130717/news.htm

1925年~61年当時の未婚女性が無理に子供を産んでも、
子供の行く末は少なからず、この保護施設跡に埋められ隠蔽された遺体になる結末を辿ったのか。
当初は、結核や、はしかなどの流行り病で死んだ(もっと昔の時代の子供の)遺体が、
数十人ほど埋められているだろう、と釈明されていたようですが。
悪質なネグレクトがあったことはすでに立証されているので、
ここまで数字が大きいと、保護施設で組織的に子供を始末していた可能性が当然、出てくる。
さもなきゃ、しかるべきお墓があって良いんです。

とっさにギレルモ・デル・トロ制作の2007年のスペイン・メキシコ映画
『永遠のこどもたち』を思い出しました。
あの映画では孤児院の6人。
いっぽう現実のアイルランドは、36年間に796人で、桁が違いすぎるが。

妊娠35週の胎児の遺体もあるということは、
カソリックの修道女施設が、
表向き堕胎を禁止しながら、裏では堕胎をさせていたのだろうか。
社会のひずみは弱者が全部、受け皿となる典型の見本みたいな跡地だ……。

それにしても日本語の記事の文面、人骨の痕跡が「浄化槽に隣接した複数の地下室で発見された」
これ、どういう状態だったのか、曖昧すぎて具体的にさっぱり分からない……。
英語でこんな記事ありえるのかな。

日本語のCNNの記事は、英語の参照元が載っていません。
Amnesty International,
Ireland,
796,
CNN
と、キーワードを入れてググってみたら、一発で出てきました。

→Ireland: Human remains found at former home for unwed mothers and babies
http://edition.cnn.com/2017/03/03/europe/ireland-tuam-human-remains/

まったく同じ記事で、日本語版はこの記事の和訳にすぎないのですが、
思った通り、情報がところどころで抜け落ちているんですよね。
意図的に、表現をやわらげるために情報を抜いているのかと思われる。
たとえば日本の記事は施設名が書いてない。
英語の記事はもちろん、施設名から書いてあります。
St. Mary's Mother and Baby Home。

ほかにも、日本語の記事では「地元の歴史家」とか「カトリック関連団体」とか「修道女」とか、
ニュースとしてそれありなんですか、というふわっとした記述にぼかされていて、
これ以上、深く調べることができないようになっている。

英文記事ではきちんと明記されています。その名前でググれば、もっと詳しい状況がわかる。
たとえばこれ。関連写真17枚。
http://www.dailymail.co.uk/news/article-2651766/We-need-dig-babies-graves-Ground-Penetrating-Radar-reveals-lies-beneath-Tuam-Home-site.html#i-65c945ad26967efd
796人が埋められた土地と、当時の修道女の立派なお墓が対照的。
大量の子供の遺体が埋められたとおぼしき、複数の地点についても図解があります。

これら英語版の記事によれば、しかるべき家族のところに引き取られた子供も存命しているし、
数年間、施設で暮らしたのちに、
自分の子供を引き取れる状態になった生母のところに帰った子供も存命中なのがわかります。
(今でいうペットの保護施設みたいな感じで、育てにくい子から始末されたんじゃなかろうか……。)
子供がまったく居なくなってしまえば、始末しているのが周囲にバレますしね。

でだ。
日本語のCNN記事にある、「浄化槽に隣接した複数の地下室で発見された」という文面ですが、
原文のCNN記事では→Human remains were found in the chambers of an underground structure next to a septic tank which could have been used for sewage storage or treatment

浄化槽と一口に言っても、大規模なものから小規模なものまであるわけで、
septic tank=浄化槽、汚水処理タンク (septic=腐敗物)
sewage storage=下水タンク、汚物タンク
sewage treatment=下水処理

原文からは、単純な浄化槽というよりは、
どちらかというと下水処理施設の汚物タンク、その浄化槽という状況が浮かびあがってくる。

日本語にある「地下室で発見された」という文面だと、
隠し部屋でもあったのか? お仕置にでも使う部屋にでも閉じ込めて、放置したのか?
想像と疑念が交錯する余地が次々と出てきますが、
the chambers of an underground structureと読めば、
これ、部屋とは全然かぎらないじゃん! 

小野不由美の『屍鬼』に出てくる、追いつめられた屍鬼が一斉に逃げこむ、パイプライン。
ああいった所に、施設の子供の遺体をつぎつぎ遺棄していった、とも考えられます。
下水処理の浄化槽に隣接しているなら、
使われなくなった下水道の場合もあるだろう。

浮かび上がってくる光景が、がぜん、異なってきます。

……付記 そもそもhuman remains……


五虎退と鬼切@江戸博「戦国時代展」 [か行]

22日、日曜日、江戸東京博物館の「戦国時代展」で、今度は五虎退と鬼切(髭切?)を見てきました。
五虎退は粟田口の短刀。
鬼切は刀剣乱舞の髭切と同じ刀剣なのかもしれない一振りです。
 
  鬼切の伝承はけっこうほかにもあるらしく、
  この鬼切が「源氏の重宝、髭切さ」と同一なのかというと議論の余地はあるのだろう。
  ただ今回の鬼切のキャプションを読むに、
  「源氏の重宝である」点は、間違いなかった。

大寒特有の極寒が続いている中、日曜日はぽっかり天気が良くて、暖かかった。
真夏と真冬は出足が鈍りがちな私も、ほいほいと出かけた。

着いたのは4時過ぎでしたが、混んでいました。さすが日曜。
おそらく一番混んでいたのは、昼過ぎ2~3時ごろだったのでは。
大量の客が、博物館から駅へと向かって出てくる中で、
一人逆行して江戸博に突き進むわたくし。

この分ならけっこう客も捌けているだろうな……と期待していたのだが、刀剣のところだけ行列が。
刀剣乱舞の刀が目当て、といった感じの閲覧者が3割ほど。
あとは、せっかくだから見ておこうかといった感じの入場客だったと見受けられた。

前回、宗三左文字が置いてあったところに、
正宗の打刀があって、これが一番、切っ先が大きくて派手だったので一番人気で、
人だかりがなかなか動かないのだった。
(正宗の刀剣は、ゲームの刀剣乱舞にはいない刀です……。)

なぜ、わざわざ一か所に目ぼしい刀剣を、まとめて展示するんだろうか、こんなにくっつけて……。
昨今の刀剣人気を鑑みれば、混むことはわかる。事実、行列用のパーテーションも用意してある。
行列をつくるのが一種のステイタス、学芸員の誉、展示成功の証なんだろうか。
アカデミックな分野では、最も見やすい快適な環境を提供することが、
最善策なんだろうと信じていたのですが、
若冲展のあの信じがたい行列といい、
行列こそ集客のステイタス、行列のできるラーメン屋さんと同じ観点なのかもしれない。

まあ各、学芸員とか博物館とか企画展の方針ごとに、きっと差があるんだろうなあ……。

といったようなことを考えながら、周囲の展示物に遠目に目をくれつつ、待つ。
刀剣にたどりつくまで25分ほど待ちました。

宗三左文字を見に行ったときは、パーテーションがあって、人だかりができていても、
平日だったし行列になってはいなかった。
今回はみっちり2列ずつ5レーンになって並ぶ。
皆ある程度、じっくり見ているがゆえに、列になっていた感じ。

私はそこそこ背丈があるので、私が前に立つと後ろの人は圧迫感を受けるかもしれず、
こちらとしても、咳払いとか睨まれたりすると台無しなので、
博物館や美術館では、けっこう前後左右を気にする。
立つ場所と、正面をふさぐ時間を気にしつついるので、じっくり見られないときも多い。
だからいつもは、ガラ空きになりそうな日程と時間帯を極力、狙って行くのだが。

今回は、順繰りに進むぶん、後ろから見えるかチラチラ気にする必要がない。
いざ自分の順番がまわってくると、宗三さんを見に行った時よりも、
自分の持ち時間分は、周囲を気にしないでガン見できました。
正宗の豪快な刀剣が人気だったこともあり、
鬼切なんてガラガラで、
いいの? わたし正面まるまるみっちり占領しちゃっていいの?

粟田口の短刀、五虎退はとにかく華奢でした。
厚藤四郎を見たばかりだったから余計そう感じるのかもしれないが、
身幅も厚みも、厚の半分くらい。
とにかく白い。
鋭利。白さのせいか、鋭利なのがすごく引き立って映る。

刀剣乱舞2017年2月のカレンダーや、今回の戦国時代展のショップにある五虎退の写真では、
黒い地肌と白い刃文がくっきり映っている写真なのだが、
実物はとにかく白いです。
プラチナというよりは、白金めいた白さ。
よくよく近づけば、黒い地肌と白い刃文の差がわかる感じ。
遠目にした時点では、ほぼ真っ白。
白銀の世界の白です。

刀剣乱舞のキャラクターは、有名な持ち主に似せてくる場合と、
刀剣そのものの擬人化もとい付喪神化の場合とがありますが、
五虎退はあきらかに、刀剣そのものの具現化で、だからあの華奢な姿、
肌も髪も淡雪のごとき、あのキャラなんだなあ……と、納得。

でも鞘とかの拵(こしら)えは、ゲーム絵の水玉模様とは全く別物だった。
(歌仙兼定などは歌仙拵えの鞘も、ゲーム上で完璧にそのまんま再現されています。)

――ちなみにゲーム上の、おどおど気弱な短刀・五虎退は、
極めてきたら謎テンションな不思議ちゃんと化していて、面食らいましたが、
「ぼくが死んだら~」と朗らかに語りだすあたり、いいですよね。
極めてきた短刀は、他の大きな刀剣よりも、死に直結した台詞を当然のごとく口にしますね。
短刀って、ほかの刀剣と比べても、戦いの道具とか御神刀になるとかいうより、
切腹したり、御枕刀として用いられる機会が多い。その立場上、死を達観あるいは熟知してる感が、
頼もしくって好きです――。

展示は左から、正宗の刀剣、粟田口の五虎退、長巻(薙刀によく似た大太刀)で、
一番右端が、鬼切でした。

鬼切は遠目にも、あ……あれは鬼切!
舟形というか。舟底を髣髴とさせる反りが深い。
一目で物騒さが伝わってくる太刀でしたが、大太刀といわれても違和感ないくらい。
大きく感じた。
大振りで切っ先が小さい外見は、三日月宗近に似ていました。
だから全体的に優美っちゃあ優美なんだが、
樋(ひ・刀剣の背中側に掘られている溝)が通っている点が、三日月よりも断然、実戦向き。
芯が通っていて、頑丈そう。見るからに物騒で骨がありそう。
鬼切か……そうね鬼くらい斬ったろうね……。
自然、見ているこっちの背筋がしゃんとする感がありました。

名刀や名剣は長時間見ていると生気を吸い取られるとか、
とくに女性は刀と相性が悪いから危険とか、
すごくまことしやかにネット上で出回ったことがあったなあ。
刀剣乱舞由来の刀の展示が始まるよ、となったくらいの時期だったか、
「自分は気分が悪くなったことがある」という実体験と共に語られていた……。

個人差があり、感覚的なもので、一刀両断できはしないが、
あれって一種の「女性が入ってくんな」のステマ的な流言だったのかなあ……と思い至った。
名刀で退散するのは悪霊とかだったりするんですよ。
名刀を見てると女性は気分が悪くなりますって、……え? どういうこと?
また、女性は刃物と縁がないとでも……女性のほうが料理してない? 

私は昔から刀剣好きだったし、
刀剣を見ると気分がスッキリ、モヤモヤが晴れはしても、生気を吸い取られる気はしたことがない。
まあ……そう長時間も拝める機会が無いからな……と思い直したりしてましたが、
刀剣研磨の研ぎ師の女性もいるくらいだし、
刀の大小を寝室の床の間に飾って寝るのが武士のならいで、
だったら武家の奥方なんか一体どうなる……。

そういえばアメリカに留学していたとき、沖縄出身のM子さんという人がいて、
私より3歳年上、けっこう仲良しだった。
「やまとんちゅ……本土の人間は床の間に刀の大小を飾る。
沖縄では床の間には三味線を飾るものなんだよ。
そのくらい精神性が異なっている。むかしっから沖縄の人間は、根っから争いが嫌いなんだよう」
熱く力説されて、ぐうの音も出なかったことならば、あります。


亀甲貞宗@東博 [か行]

端的に言うと、国宝・亀甲貞宗の刀は繊細かつ端麗。
一見して、胸打つような白刃の光沢が、やや繊弱な印象、
どちらかといえば細身で、スッと筋が通った感じの反りが、
おおお、国宝。
……という気品あふれる美しいたたずまいの一振りでした。

ゲーム刀剣乱舞の亀甲さんについては、私は10月15日くらいにゲット。
我が本丸しては上々の出来!

その少し前に太鼓鐘貞宗、通称・貞ちゃんをイベントマップでゲットし、
あとはひたすら明石国行……明石国行……。
うわごとのように、明石……明石よ……いい加減にもう、へそ曲げてないで出てきてくださるまいか。
イベントマップ2面を突撃しつづけ、ようやくゲットしたのでした。
実装2015年5月1日から、ほぼ一年半の年月を要して、やっとか!
イベントマップは難易度が低かったので、惰性でプレーしていたために、
明石の顕現場面を思いっきり見逃す……。
ともあれ来てくれて嬉しい、明石国行! 
三条大橋をどれほど往復しただろうか! 明石狩りの間に、どれだけの刀剣がカンストしていったか。
どれだけ検非違使が出て、どんだけ虎徹兄弟、源氏兄弟がお目見えしたことか。
どれだけのお守りを発動させたことか!

たびたび開催される明石ドロップイベントでも、いっこうにお目見えする気配はなく、
我が本丸においては、三日月宗近ゲットまでの期間と肩を並べる、
入手困難な、得難き刀剣であった、明石国行。
口調と台詞がいちいちツボである。
平野君となにもかも正反対すぎて、中の人が同じだなどと、知ってからも信じられない。演技の幅。

その感激が冷めやらぬうちに、(翌日でした)
すんなりやってきたのだった、亀甲貞宗。
2016年8/23に実装された亀甲貞宗につきましては、
(どうせうちの本丸にすぐ来てくれる筈ないじゃん)
気長に構えていたので、虚を突かれまして。

現時点、もっとも戦闘困難とおぼしきマップから、2カ月足らずでドロップ。
我が本丸の運を鑑みると、異例の早さ。ボスマスA勝利・20回くらいだったか。
とりあえず「こんのすけ」企業ゆるキャラ上位記念、ドロップ率倍増キャンペーンに感謝。
重畳重畳……なのは、いいんですが、
そんな立て続けに、眼鏡キャラが登場しても、心の準備ができてないし、
飽和状態ですよ、なのである。

そのため「六角形の眼鏡って……亀甲アピールやりすぎじゃない?」
マント裏地と鞘の模様までもれなく亀甲模様とか、
(刀剣というよりは、蜂の巣の妖精みたいなのがきた)
と、そんな精神状態で、亀甲貞宗を見に行った。

ゲームのキャラと、実体の乖離がここまで凄まじい刀剣も珍しいな……
という印象を私は受けました。

実際の国宝刀剣・亀甲貞宗のたたずまいを、
ゲームのキャラに無理やり当てはめるなら、
山姥切国広に、襤褸布のかぶりものを脱いでもらって、
声は骨喰藤四郎で、
「綺麗とか……言うな。さわるな……」
と顔を背けちゃう感じ。
伝わるだろうか。

亀甲マークが茎(なかご)の裏面に、上品かつ秘めやかに彫り込まれており、
今回は裏が例外的に、表を向いて展示されていました。
(東博展示のキャプションにも、その旨が言及されていた。)

このひそやかに亀甲文が入っているところが、ゲーム上のドM設定にマッチしてはいる。
ただし! ゲームキャラの亀甲さんは、
ナルシスト気味自己アピール全開!
思いのほか天真爛漫で元気いっぱい!
ゲーム上の貞宗の刀剣は、もれなくハツラツとしていて陽気ですよね。
物吉貞宗しかり、太鼓鐘貞宗しかり。

刀剣乱舞公式における亀甲貞宗の紹介文、
「気品薫る貞宗の風格。白菊のごとき美青年」
かかる付喪神像は、なるほど実在の刀剣である亀甲貞宗と、たがわない。
またゲームキャラの亀甲さんも、その紹介文と大きく、ずれてるわけでもないのですが、
ゲームキャラの亀甲さんと、国宝の刀剣・亀甲貞宗は、大きく違った。

写真を撮ってきたものの、案の定よく撮れていない。
シャッターを焚けないせいもあるけど、急いで撮るのでピントがぼけすぎ。

2016101915570001small.jpg
2016101915580000.JPG
指裏に亀甲文。

私の携帯の画質が今一つというのも大きいのですが、
ありがたいことに国宝ですので、こちらで確認できます。

http://www.emuseum.jp/detail/100193/001/002?word=&d_lang=ja&s_lang=ja&class=&title=&c_e=®ion=&era=&cptype=&owner=&pos=97&num=3&mode=detail¢ury=
e国寶  刀 無銘貞宗(名物亀甲貞宗)
茎の裏の亀甲紋がお分かりいただけるだろうか。
(サイズ調整できます。表側も見られます。)

実物を生で見ると、静かな感動があります。
東博で11月13日まで展示しているようです。
私が行った10月中旬は、備前長船派・光忠の刀も展示されていました。
燭台切光忠とはもちろん別物ですが、
同じ長船派の光忠なので、燭台切光忠が焼けて黒く煤ける前の姿を想像できます。
乱れ刃(……もとい丁子刃)が華々しい色気を放っておりました。

2016101915580001mitutadaosahunesmall.jpg
光忠のほうは、刃文が少し写真でもわかるだろうか……。
2016101915580002trim.jpg

昨年七夕あたりに、三日月宗近を見に行ったときには、
ゲーム審神者とおぼしき面々がわらわらと。大雨だったので、それでも随分、空いていたようだったが……。
今回は晴れた昼下がりに行ったのですが、
ゲーム審神者とおぼしき人は、おそらく私と、あと(あの人、多分そうだな……)という一人くらい。
お互いに無言でさりげなく、(あの人たぶんゲーム審神者でお目当ては恐らく亀甲さん)と、
互いにチラ見で認識しつつ距離感を保って刀剣鑑賞を終えられる感じでした。
外国人観光客が疲れ切った足どりで、だるそうに漫然と見て回ってる姿が圧倒的に目についた。

ところで余談ですが


行間を読むというのはこういうことだよエリオット [か行]

そうシグモンドも『カンパニュラの銀翼』で言ってました。
(正確には「文間を読むとはそういうことなんだよ、エリオット」)

ポーの『大鴉』に関する考察的な①~の続き。

私は実は、それほどエドガー・アラン・ポーに親しんできたと誇れるものはなく、
留学先の大学の英文学の教本に載っていた
Cask of the Amontilladoについて、
中間試験用の小論を書いて提出したことがあるくらいでした。

今回、文芸作品の翻訳に携わるまで、ポーに関して原文で扱ったのは、
その短編にも満たぬくらいの掌握小説Cask of the Amontilladoだけ。

日本に帰国してからは『アッシャー家の崩壊』(佐々木直次郎翻訳)を、
青空文庫からダウンロードして、これは好きな作品で何度も読んだ。

あとの作品は常識の範囲で知ってはいるけど、通読したことはない、という状態。

日本語でも英語でも、そうまともに読みこんだことはなかった分、
偏った先入観もなく、まっさらな気持ちで深々とポーの文章に真っ向勝負で、潜っていった。

エドガー・アラン・ポーの『大鴉』の行間から私が何を感じとったか、
この作品を訳す上での全体的な色調やトーン(翻訳の方針、出すべき統一感)
隙間から見える景色とは、
端的に言って
「水、水辺」です。
……詩の舞台は、深夜のと或る部屋、暖炉・扉・床・窓辺・机・椅子近辺なのですが。

『大鴉』はざっくり言えば、
あの世とこの世の境目が夜更けに交わるような状況や錯覚を描いていて、
日本的にいうなれば、彼岸と此岸。

実際ポーも、大鴉がどこからどこにやってきたのかを、 
nightly shore
Night’s Plutonian shore
whether tempest tossed thee here ashore

などという語で表している。
彼岸と此岸という意識は、私が勝手に行間から汲み取ったのではなく、
作中でポー自身によって、かなりクリアに言明されているといえるかと。

韻を踏むための技巧のせいもあるとはいえども、
Night’s Plutonian shoreに至っては複数回、出てきます。

又、たとえば扉の上に掛かっている胸像を描写するとき、
placidという、
穏やかな水面を描写するときによく用いられる言葉を出している。

さらには、
as if his soul in that one word he did outpour.
このoutpourという語も、
感情のほとばしりを意味する動詞とはいえ、
水を扱うときの語。

ポーとしても、
水際や水辺といった雰囲気がひたひたと迫るように意識して、
あえて、この手の語を選んで、描いている。

stillness gave no token,
このstillnessも水を思わせますね。
Still water runs deep という諺がすぐ浮かぶ。
(ちなみに私はこの諺が意味深でなんか好き。)

このstillness gave no token,
「水を打ったよう、波風の兆しも見えぬ」
と水を意識して、私は訳しています。
このstillnessという語も『大鴉』の詩で度々、登場します。

詩の最後でも、
僕の浮かばれない影をfloatingという言葉で描写している。
Floatも浮くという、水にまつわる言葉。

逐一、挙げていくときりがない。
作中が、いちいち水を想起させる語で満たされている。

少なくとも私の中では、知らず知らずのうちに、
彼岸と此岸の往来、夜の水際の意識が、
脳内イメージとして蓄積されていたわけです。

訳す当初は、さほど強く意識していたわけではなかったけれども、
なるべく水を意識したいというイメージが、
無自覚のうちに芽生えていたらしい。

推敲する段階ではもう自分でもかなり意識的に、
水辺にこだわって一語一句を選んでいました。

冒頭のWhile I nodded, nearly napping,
「うつらうつらと舟を漕いでいた、まどろみかけていたところ」

うたた寝していた、居眠りしていた、といった系列の表現の中で、
「舟を漕ぐ」という表現をまず選んだ時に、
『大鴉』を訳していく上での雰囲気の方向性が定まったのだった。
あとは、夜の水辺の気配の中から、言葉を掬い上げていく作業。

there came a tapping
「雫のしたたり落つる音」

tapというのはもともと、タップダンスとかのタップ。
カツカツいう音なわけですが、
カツカツ、こんこん、コトコトといった類のオノマトペを安易に使うのは避けたかった。

日本語はオノマトペがかなり特殊というか、豊富にありすぎる。
もとの英語がオノマトペを使っていないので、
「もしもエドガー・アラン・ポーが現在、日本語が母国語になっていて同じ詩を書いたとしても、
絶対このオノマトペを使うと思う!」
と、よほど確信できる、しっくりくる語がない限り、
こと、詩においては、慎重に扱わなくてはいけない、と思っていました。

tapという単語はtap water (水道水)とかのtapでもあります。
やはり液体に関連する語。

tap(タップダンスとかのタップ)とtap(水道水とかのtap)とでは語源が全く異なるので、
はたしてポーがこの同音異義語を意識して、tappingを使ったか――
については、人によって解釈が異なるかもしれませんが、
私は無関係ではないと思った。

私自身が小説を書くときに、同音異義語は時としてかなり意識して用いている。
―隠微と淫靡とか―
―凶器と狂気とか―
―片身と形見とか―

隠微にいやらしい淫靡の意味はないのだが、
そこはかとなくそういったニュアンスを秘めたいときに使う。

凶器を、武器と言わないでわざわざ凶器と書くときには、
使うほうに必ず非があり、その非は、なんらかの狂気を伴うものかもしれない――

という可能性をさりげなく示唆したり、知らず知らずのうちに植えつけたりするときに使います。
なんとなく感じさせる雰囲気を言外に醸し出したいときに、
作家は――少なくとも私という作家は、そういった手法をとることも多い。

片身と形見については、
短編「セイヤク」や「゛極東での若き日々”」で、
実際かなり意識的に使った経験があります。

セイヤクのときには、編者の井上雅彦先生がこの同音異語に、
すぐさまピンと気づいてくださって
「いいですね」とコメントをくださった。

゛極東での若き日々”
においては、担当編集者がむしろ全く気付かず、
「なぜ片身のようなヴァイオリンという言葉を使うのか、単にヴァイオリンで良くないか?」
小説家は書き手のプロ、いっぽう編集者はいわば読み手のプロなので、観点が全く異なるのだ。
(尚、小説家が書き手のプロで、編集者が読み手のプロという、
この認識が双方で食い違うと、仕事をする上でギクシャクしがちだ。)

で、私はここぞとばかりに、かなり熱く、
「ここは片身という語から、形見というイメージを読者にできればそこはかとなく感じてもらいたい。
実際はそうと気づいてもらえずともよい。
知らず知らずのうちに作品の雰囲気にそういう意識を浸透させたい。
そういった意図で、片身という言葉をあえて入れている。
セイヤクという短編では、そこを評価してもらってもいる。そのときのと同じヴァイオリンです!」
と力説して、小説に書いた記憶があります。

小説に限らずとも、日常において語感と語意というのは意外にも作用しあっていると思う。
まったく同音なわけでなくとも、
たとえば「姑息」という言葉を「一時しのぎ」という本来の意味ではなく、
「卑怯な」といったニュアンスで使う、
いわゆる誤用のほうが、現況、7割の日本人に浸透しているらしい。
これは「姑息な」という音の語感が、「こしゃくな」という語感と似ているからでは?

『大鴉』の詩の中でtappingという語に出会ったときに、
私は水や液体のイメージを喚起されつつ、何か打ちつける意味をまっさきに受け取った。
そのニュアンスを的確に表せたら、と思い至ったのが
「雫のしたたり落つる音」

 尚、今回、翻訳し終えた後に、
 過去の訳者の『大鴉』の詩を二編ほど、探して読んでみました。
 いずれも「ほとほとと」という語が用いられていた。
 ほとほとは素敵ですが、
 原文はthere came a tapping
 a tappingなので、1タッピング。
 一方「ほとほとと」だと複数回、物音が鳴ってるような感じが強調される。
 無論a tappingで「ほとほととした音」1セットと考えることもできるし、
 オノマトペは雰囲気音感なので、一回二回とか厳密に数えきれる数量ではないのだが。
 
betook myself to linking fancy unto fancy
「夢幻の淵へと糸を垂らして爪繰った」

「淵」という語を出さなくても訳せますが、
前述の「舟を漕いでいた」という表現と同様に、
水を意識した「淵」という語を使ったほうが、より水際としての統一感が出ます。
押し寄せてくる彼岸と此岸のせめぎあい、
夜の淵の深みのような気配が、
ムードとして色濃く出るかと。

……と、まぁそんな感じで、終始、行間に、
ひたひたと夜の水辺を感じつつ、訳し終えたわけでした。

E・A・ポー (ポケットマスターピース09)
が刊行となったのち、本の編者であり立役者でもある翻訳家の鴻巣友季子氏から
「どのような経緯で、--a tapping--を--雫のしたたり落つる音--
と、中里流に訳すに至ったのか」という質問を戴いた。

「水です」
ちょうどこのブログに書いているようなことを、長々お答えしたところ、

《いいですね。tapと水、水の雫は自然と結びつく》
と、賛同いただけてとても嬉しかった。
《ついでに言うと、rapはlapとも重なる。波がひたひた、のような》
と。

まさに、そうでした! 大鴉の原文は
…napping
…tapping
…rapping
と韻を踏んであって、
rapはラップ音のラップ、連想されるlapは波が打ち寄せる、潮の満ち引きなどをあらわす動詞です。

さらには、
《ガストン・バシュラール「水と夢」にも、ポーにおける水と死と夜についてのimageryについて書かれていた》
とのこと。

……水と死と夜……
なんと私の琴線に触れる語であることよ!
私はガストン・バシュラール「水と夢」という著作を、
恥ずかしながら、まったく知らなかったので、
――読もう!

以来、ひそかに息巻いているのだが、
いまだ実行に移せていません。



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歌仙兼定登場@永青文庫 [か行]

実物の歌仙兼定を見にいってきました。

7/9日から始まった歌仙兼定の展示、
混むかもしれないと、7/14日、すいてる昼時を狙って友人と行きました。
おかげで暑かった! 

あまりに暑く、ぶっ倒れるのも馬鹿らしいと満場一致(二人ですが)で早稲田駅からタクシーを拾う。
複数人で行く場合、この手段はこの時期、かなり有効かと思います。
普段インドア派すぎるというのもあるのだが……
あそこまで暑いと思考回路が正常に機能しないので、炎天下で迷うのも、無理だ!
東西線早稲田駅から1000円区間でした。

永青文庫界隈は、早稲田大学や日本女子大やらのキャンパスが連立。
永青文庫近辺になると、にわかに鬱蒼と深緑に囲まれて、別世界。

永青文庫は、もともと細川邸のうち事務所だった建物を再利用しているようで、
使用人達の詰め所とか、屯所とかそういう感じだったのか?
当時の洋館の面影を色濃く残していて、ややさびれた感も、味わい深いです。
階段の手すりの位置が異常に低いのに驚く。

館内は美術品があるので、猛烈涼しい。
公式ページにもあるように、上着持参が賢明です。
永青文庫は美術館といっても小ぢんまりしているので、
ひょっとしたらコインロッカーないかな……と危惧していたのだけれども、
ばっちり完備されていて、かなり助かった。

歌仙兼定は展示期間が長いので、私が行ったときは、さほど混んでいませんでした。
ありがたい。じっくり堪能できます。

四階から展示となっており、四階から二階までが展示場。
下に降りてくるという順路で、歌仙兼定は四階の奥・中央に。
薄暗い、もと洋館の古めかしい空間に、ライトが当たっている展示品が並んでいて、
天井が高くゆったりしていて居心地がとても良かった。

歌仙兼定は印象として、打刀としては小振りでした。
《片手で振れるように寸法がやや短くなっている》と説明書きに。
――細川家の目録には脇差の項に書きこまれてありました。
「大振りの脇差」として通用するサイズ感です。

まっすぐ一本気な歌仙っぽく、刀身はやや図太めでまっすぐ。
先端にかけて若干の反りが入っています。
(切ッ先は猪首だったか。うろおぼえ。)

細川忠興が、部下の不調法を罰するためやら、悋気に任せて、三十六人斬ったから、
三十六歌仙になぞらえて、歌仙兼定なわけですが、
細川家側の記録にその旨は明示されて残ってはないとか……
(細川家の性分として代々語って誇れることでもないだろう)

ごくわずかに微細な刃コボレも見られて、使いこんだ感がひしひしと伝わる刀身でした。
そのせいか若干、刃先はよく研ぎこんだ庖丁の風合いに見えないこともなかった。
まさに人斬り庖丁感です。

刀身にひきかえ鮫皮(……エイかも)を漆で燻した鞘が、白と黒のある種天然の水玉模様*で、
スタイリッシュかつポップでおしゃれでした。
この歌仙拵えの鞘、のちに「肥後拵え」と呼ばれたものが、ほかにも何点も展示してあって、
軽そうで、使い勝手も良さそうだった。
鮫というと、文字通り鮫肌でブツブツざらざらが残っている仕立てが一般に多いと思うのだが、
つるっと平ら(エイだから? 燻して漆でコーティングしてるから?*)
エナメルっぽい質感に映る。
ごてごてした飾りがないこともあり、洗練されてます。

今回は展示のお題目が「歌仙兼定登場」なだけあって、歌仙兼定に関連する展示となっており、
細川家というと茶道具の目利きというイメージがあった分、
茶道具のたぐいの展示がなかったのが、私としては少々、残念だった。

とはいえ大半は刀ですが、石棺なみな長持の数々や、
当時の自筆のカルタ(百人一首が書いてあった)とか、
和太鼓——これが、きらびやかではないのだが、色合いがシックで上品な風格が極まっている。
また梨地に秋の花々、川が流れている、蒔絵のほどこされた、今でいうピクニックセット(徳利とか重箱とかが小さい箪笥状にしつらえらえれている)のとか、
ほんともう、風流かつ雅の極み。
華美過ぎず、かといいワビサビの過ぎた野暮ったさがない。
今回、目にしたのは細川家伝来の逸品のうちのごく一部なのだろうけど、
終始一貫して細川家の毛色って、ほんと良いセンスしてらして……と感じる、
私好みでした。

そんな中で、一振り、今まで私が目にしてきた太刀の中で一等好きだ、
運命的な出会いに匹敵するくらい一目ぼれだ……
という大振りのとてつもなく美しい太刀がありまして、
歌仙兼定につられて行ったのに、わりと記憶に焼き付いているのは、その一振りの太刀であった。
国宝・豊後国行平・作

http://www.eiseibunko.com/collection/bugu3.html
これですね。

写真で見ると、いまひとつよく存在感が伝わってこないのだが、生の刀身は素晴らしくきれい。
死神みたいな変な模様が柄ちかくに彫りこまれてるのが謎でしたが。
これの役行者っぽい人物は、永青文庫のコレクションHPによれば、
実際は裏なんですね……。
表に配置されていましたよ。
たぶん銘を見せるためなのだろう(この作者は裏に銘を入れる人らしい。)
展示は裏側に倶利伽羅龍が入った状態で置かれていた。実際は倶利伽羅龍が表なのだな……。

永青文庫は、刀の表裏とか、置き方に関しては、はっきりいって、しっちゃかめっちゃか。
柄(茎側)が左だったり右だったり……自由すぎる。
見せたい面を表にするためといえど、どちらかに揃えてくれねば……せめて注意書きを添えてくれ。
どんな刀だろうと、刃が上向きに置かれていた気がする。
ちょっと、どうなのと思うのだった。
(それとも細川家独自のこだわり展示法だったりするんだろうか……)

豊後国行平作の太刀は、
刀身がプラチナめいた白っぽい輝きを放って、ややほっそりとしつつも大振りで、
弓なりの反り具合の優美さといい、
切っ先が、異空間を切り裂いて時空に溶けいるくらい滑らかに研ぎこまれており、
息を呑む美刀。
……ほしい。
いや見られただけでもうれしい。

歌仙兼定と関係がないものとしては、踊り場にあった書棚とか、
近世になって細川家の人がフランスに8年留学していたときの数学のノートが興味深かった。
目をみはる麗筆なペン字で、フランス語で数式などをノートにとってあり、
フランスに8年もいれば書けるか……? とも考えたが、
自分を鑑みるに、
私は足掛けで9年くらい(実質いたのは正味6年ですが)アメリカに居たけど、
英語でこれほどきれいにきちんとノートテイキングできたかと言えば、
比べ物にもならない。足元にも及ばない。
もっといえば、日本語でもあそこまで完璧なノートを取れたことはない。

おそらくは、当時も西洋の授業法として、
板書きをひたすら書き写せばよいというスタイルではなかった筈だろう。
仮に後でまとめなおして書き直したのだとしてもだ、
ただ由緒と財力ばかりの「ええとこのぼんぼん」とは格が違うインテリぶりを、
さりげなくもまざまざと見せつけるノートでした。

永青文庫の季刊誌95を買って帰りました。
季刊誌95は写真の色味も綺麗。

今回の展示《歌仙兼定登場》の図録も売っており、
図録と一緒に季刊誌を購入している方々が多かった気がします。

図録もオールカラーで、展示品すべてが載っていたかと思いますが、
私からすると説明文の入れ方が斜めになっているレイアウトが違和感があったのと、
写真が小さく、かつまた実物と比べて写真の色がかなり見劣りするので、控えました。

以前ゲットした石切丸や小狐丸が載っていた石切劔箭神社の図録は、
図録の写真自体がすごくきれいで、文面も鑑賞に値する出来栄えだったので、
そういうのをイメージしていたが、あくまで思い出アイテムにとどまる感じ。
思い出アイテムとしてなら図録も買って損はないのかも。

永青文庫を出たあと、徒歩五分弱の新江戸川公園にある松聲閣(しょうせいかく)へ。
永青文庫から新江戸川公園はつながっていて、木々の中を歩くので、
階段も多く足場は悪いけれど、暑くはなかった。
松聲閣はもともと細川家の学問所だったそうです。
今は一般利用できるようになっていて、文京区の人ほんとラッキーだな!
いろいろ補修されて畳はまだ青々として、新しい畳の匂いがしていました。
すごく急勾配な階段とか、狭い廊下や縁側などは、昔の日本邸宅の趣が随所に。

お目当ては歌仙兼定のイラストレーター・ホームラン拳氏の描きおろしイラストの展示。
等身大の歌仙兼定のパネルと並んで、イーゼルに展示されていました。
描きおろしイラストは、歌仙さんが持つ歌仙兼定の鞘と刀身の再現率が半端なかった。
さすが公式・永青文庫とのコラボ! まごうことなき歌仙さんと歌仙兼定だ。

等身大パネルは予想より大きかった。衣装がかさばる系ですしね。
歌仙さん、等身大パネルだと顔が小さく、背がすらっとしたのが際立って、美丈夫でした。

*追記


今後もブログは通常営業 [か行]

Ask.fmを始めてから、
信じられないくらいに当該ブログのアクセス数が激減し、
たまに検索ワード(包丁・殺傷力とか、東尋坊・行き方とか)に引っかかって、
事故的にやってくる人くらいしか、立ち寄らなくなったようなのですが、
このブログは今後もこれまでの不定期ペースで続けていきます。
(むしろAsk.fmに既に飽きかけている。フォントやフォントサイズを変更できないし、自動生成される質問は似たり寄ったりだ。)

元来、物凄くニッチなブログですので、
アクセス数を気にしてはいなかったんですが、
カウンターが壊れたかしら?
というほどなんで……これは何か誤解されている気がしました。



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ゲットー解体と『シンドラーのリスト』 [か行]

私がアメリカに留学していたのは2000年前後ですが、
(大学院留学中に9・11が起きたのだった)

留学中の当時、3月のこのあたりの日曜の夜には、必ずと言ってよいほど、
映画『シンドラーのリスト』をノーカットで、みっちりテレビが放映したものでした。
最近この時期にアメリカに居る習慣がないから、わからないけど、
ひょっとしたら今でもそうなのかどうか。

日本が終戦記念日近辺に『火垂るの墓』をノーカットでやったり、
夏休みとか冬休みなど、大きな休みに、ラピュタやトトロや魔女の宅急便やら、
懐かしのジブリアニメをノーカットで放映する風物詩みたいに
『シンドラーのリスト』はノーカット。3時間以上。
たしかFOXが、しかもCMを全く挟まなかった。

大きな場面切り替えの部分で、
~ただ今、ごらんの番組は映画『シンドラーのリスト』こちらの会社が提供してます~
と隅にちっちゃく出すくらいで、全編、全面リスペクト。

ジブリアニメがノーカットなのは、まぁ言ってみればテレビ局側のサーヴィスですが、
シンドラーのリストの場合、がっつりR指定映画ですんで、
土日のゴールデンタイムに、テレビでお茶の間に流せない映画のたぐいなんです。

アカデミー賞を総なめにすると、そのへんが治外法権的な扱いになるというか、
題材的に、ものすごくシリアスでもあるし、
「これ下手にカットすると面倒くさいから全編そっくり提示する、きちんと見ろ」
テレビ局が使命みたいな感じでやっていた印象を受けた。少なくとも私は。

で、題材が重いから、うっかり見るのはやめとこう……と思っていても、
ついテレビをつけたときに見はじめると、もう全部見なければならなくなる。
私を含めた留学生連中の大半が、けっこうそんな感じでいました。

描かれている題材と中身の重要性もさることながら、
映画としても物凄く魅力的にできていて、
重すぎる題材でも長い映画でも最後まできっちり惹きつけて見せる起伏と執念があるし、
技法としても、曲も画面も役者もみんな溶けこんで一つになって世界を作り、映画を構成している。

私が一番最初に見たのは、
日本で高校生だった時、友人3人と映画館に繰り出してで、
いろいろ衝撃で胸がいっぱいで無口になって映画館を出たのだった。
いっぽう友人の一人は「良い映画を見るとおなかが減る」といって、
すぐにクレープを買って、糖分を補給していたのを思い出します。

『シンドラーのリスト』
なぜこの時期にテレビで流すかというと、
題材となっているポーランド・クラクフのゲットー解体が3月13日、14日中心に執行されたからです。

ユダヤ人が殺されるシーンは、いかなる場面でも度肝を抜かれるし、
アウシュヴィッツのシャワー室のシーンはもちろんなのですが、
見ていて一番きつかったのは、3月に起こったゲットー解体の場面。
……なにしろアウシュヴィッツまでいくと、ある程度あきらめもついてくる。

ゲットーの時点では、家や財産を没収されたとはいえ、
最低限といえどまだ人間らしい生活を送っているので、
希望が残っている。
そこに突然ナチスが踏みこんでゲットーを解体しにくるところが、すごく堪(こた)える。

Itzhak Perlman - "Schindler's List Theme"

https://youtu.be/WPsAR9Sx-JQ

家屋敷に住んでいるユダヤ人を、
トランクに荷物をまとめさせ、まずゲットーに住まわせて、
次に、住んでいるゲットーを解体して、夫婦も家族も男女ばらしてアウシュヴィッツ送りにして、
アウシュヴィッツで強制労働に従事できなくなると、ガス室送りに。

その要所要所で、規格外をひたすら殺し、
その場その場の殺害を免れさせたとしても、
坂道を転げ落とすようにして、ユダヤ人を貶めていく過程の、
まず家、宝飾、服、次に髪、死なない順に身ぐるみはいでいって最後にガス室に送る。
一見、無軌道な殺戮と、
ナチス特有の几帳面な緻密さのコンビネーションでひたすら病的、片時も気が抜けない。
(ジャーマン・シェパード犬や、聴診器やらの、ドイツのお家芸である技術の結晶を
ユダヤ人狩りに遺憾なく発揮しすぎる描写も背筋が凍る。)

労働力がほしいから奴隷労働に就かせるとか、
財産没収が目当て、
いやキリスト教化が真の目論見だとか思っていると、
結局のところ民族浄化が最終目的だったんだなというのが、知っているけど途方もない。

当時、わたしは親世代にまで、せっせと『シンドラーのリスト』を、お勧めし、
アメリカでビデオを買って、見てない友人には個別上映会も辞さなかったのだが、
この映画、意外にも人によっては不評。

親世代は、
「ドイツ人でナチ党員のオスカー・シンドラーじゃなくて、彼の下で働くユダヤ人の眼鏡かけたおじさん(ベン・キングスレーがやってたイザック・シュターン)この人を主役にしたら良かったのに」
シンドラーが女好きで遊び人だったのが、気に食わなかったご様子。

……シンドラーが単なる人道家だったり、聖人君子だったりしないナチ党員な史実が面白いのに。
(私は『コルチャック先生』は申し訳ないが途中で寝た。座席が悪くて字幕が見えなかったせいもあるけど。)

聖人君子でなくとも、人道家でなくとも、まっとうな感性の持ち主なら、
ナチスがやってるユダヤ人殺戮を目の当たりにしたら「信じられねー」わけで、
そこで尻込みしなかったのは、シンドラーに博打うちとホラ吹きたる才覚があったから。
真っ向勝負でナチス相手どって戦って勝てっこないと知っているシンドラーは、
手ごわいナチスの高官を相手に、賄賂と買収、汚い手段を使ってでも、
ユダヤ人を助けていく、そこが味わい深い。

拝金主義で、お金の力を行使する快感が大好きなシンドラーだからこそ、
金の力の旨味を最大限に利用する。
全資産をなげうって、ユダヤ人助けに乗り出して、
ナチ高官のアーモンと駆け引きし、取り引きに至る。
淡々と描かれる人間ドラマとしても見ごたえがあるのだ。

ところで、ユダヤ人殺戮ナチスもの映画で必ずといって出てくる、
ユダヤ人がゲットーに移されるとき、ドアの近くで細長い留め金を引っこ抜くシーン。

私は当初、ユダヤ人はドアの蝶番の芯に、ゴールドを使っているのかと思っていました。
歯に金(きん)をかぶせて仕込んでたり、とにかく財産を隠し持つことにぬかりないので、
こんな意外なところに金を使って隠す風習があるのか……
蝶番の芯を外しちゃったら、ドアをうまく開けられないし、Not Welcomeってことで、
家を奪われる者の、せめてもの抵抗か、
と勝手に感心していたのだ。
実際はメズーザー(Mezuzah)という小さいお経が刻まれた厄除けであり、
信仰の証なんですね。

かなり最近まで知らなかった。


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ゴシック映画ばかりを見てきたわけではない [か行]

たまにほとんど発作的に、衝動的に見たくなる古い映画というのがあって、
そのために場所をとるビデオテープだったり(時代を感じる)、
DVDだったりをどれも持ってはいるのだが、
一から全部見てると時間がなくてキリがない。
そんなときにYouTubeは、実にありがたい。
結構な確率で、見たいシーンだけ選りぬきで見られるし……

と、時間を有効利用しているつもりで気が付けば4時間とか経ってるの、
本当勘弁して欲しいよね...。

† シェルブールの雨傘

https://www.youtube.com/watch?v=Zs1NmsA-n-Y

往年の少女漫画や昼ドラは、
この時代の洋画の影響を、もろ受けまくりなのだなあというのも感じつつ、
カトリーヌ・ドヌーヴが可憐を極めていて見入る。

徴兵で別れわかれになった若いカップルが、
なんかいろいろあって、
ガソリンスタンドで再会するラストシーンにと↓。


Les Parapluies de Cherbourg (Finale)
https://youtu.be/JFSsUasp9dw

男のほうは別の女性との間の息子に、フランソワと名付けてて、
先に結婚しちゃったカトリーヌ・ドヌーヴは、彼との間の娘に、フランソワーズって名付けてるとか、
男のほうが、あえて傘一つさしかけてやらないところが、あぁ……まだ好きだから恨んでるんだなぁ。
等々、いろいろ皮肉で、ほろ苦い。

私は2000年あたりにデジタル・リマスターDVDがアメリカで発売になったとき、
初めて見たのだった。
古い映画は、だるかったりしがちなのに、
昨今なじみの映画の原風景的なシーンも多いので、
懐かしいやら、新鮮やらで、今でもたまに見たくなります。

† 太陽がいっぱい(ラストシーン)

Plein Soleil (Scène de dernière) : Alain Delon
https://youtu.be/eFOJfVo7XqI?t=2m18s

このラストシーンはビデオ時代もう本当に何回見たかわかりません。
アラン・ドロンが冒頭あたりでは、猫をかぶってたのが、
どんどん本領発揮しだして、このエンディングを迎える。
ラストの眩しい刹那的な感じが大好きだ。

† マレーナ

Malèna (3/10) Movie CLIP - Causing a Commotion (2000) HD
https://youtu.be/ZTAVOF3D4vY

マレーナ(モニカ・ベルッチ)が町を歩く有名なシーン。

夫が戦争で帰ってこなくなり、父親も死んで、
田舎町に一人、美女過ぎて女性からは、やっかまれ、
男性からも破廉恥な冷やかしばっかり、
食べ物も腐ったものしか売ってもらえなくなり、食えなくなった挙句、
苦肉の策からマレーナが髪を切る。


Malèna (8/10) Movie CLIP - Malena's Makeover (2000) HD
https://youtu.be/zkBkTx-GL8s

マレーナが歩くシーンは何回かあるけれど、
後半になるにつれて、どんどん洒落にならなく苛酷な展開になっていくのですよね。
この映画はオンタイムで見た記憶が。

最近の『007スペクター』でも、モニカ・ベルッチが妖艶な寡婦役で登場してましたが、
この女優、マレーナの映画以来、そういう役がついてまわっている気がしないでもない。

ビデオで持っているが、
古いビデオデッキの健康状態がやや怪しいこともあり、
なかなか見るきっかけを作れない。
次のもそうです。

† セント・オヴ・ウーマン

The Tango - Scent of a Woman (4/8) Movie CLIP (1992) HD

盲目となった傷痍軍人(アル・パチーノ)のタンゴのダンスがキレッキレで味わい深い。
このころの映画は面白かった。
むろん今の映画も面白いが。
当時は一年に、ほぼ100本は映画を見ていました。
このところ年に10本前後を見てるかどうかも怪しい。
もっと見たい……。



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ここだけの話 [か行]

このたびの新刊
『みがかヌかがみ』
この単行本は、シリーズでも続編でも番外編でもなく、
一篇の独立した小説です。

ですが実は、
『黒猫ギムナジウム (講談社BOX)』にチラッと出てくる共通の人物がいます。

黒猫ギムナジウム165pに出てくる磔刑の侍。
猫目坊にむかって「なあ小僧、首を刎ねてくれ、どういうわけか死にきれぬ……」と声をかけてくる、
案山子のようになった人物。

目縁(まぶち)は死斑で黒ずみ、
散斬り(ざんぎり)になってふりかかる髪から兇暴な眼光が覗いていて、
鳥の嘴(くちばし)に内腑を喰い尽されて、幾日も経った様相なのに、
綺麗な目線をいやにまっすぐ猫目坊へと向ける、彼です。
猫目坊が《お手前様は、もう死んどります》と答える、その相手の人物が、
『みがかヌかがみ』の主要登場人物、
不来方で目を覚ます、雨夜城(あまよ・きずき)にあたる。

『黒猫ギムナジウム』を書いている当初から、
この磔刑の武者について掘り下げて書きたいなあ……と。
ぼんやり考えていました。

裏設定というのか、
ここだけの話。

黒猫ギムナジウム (講談社BOX)

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着せ替え [か行]

色々あっても、その時に書かないとブログって更新できないままに過ぎていきますね。
自転車を10年ぶりくらいに買い替えたよ、やったね!
……というレベルの色々ですが。

友人たまきさんの新作のお人形(今回はエイサ・バターフィールド君似の少年ですよ)を
見にも行きました☆
エイサ君のうちでも『ヒューゴの不思議な発明』の頃のエイサ君という感じです。

「少年時代のイライジャ・ウッドにも似せてる?」
「イライジャは以前、女の子の人形を作った時、ぼんやりイメージしてた」
なるほど! 好きなものって、意図せずとも作品に滲み出るんですよ。

たまきさんのお人形のおとなりに飾ってあった若者のお人形も、
超、とある女優に似てました。
「似てる! あの英国人のちょっと変わった個性派女優に似てる、ええと、ええと……美人なのに(あるいはそれゆえに?)汚れ役が好きなのかエキセントリックな役ばっかり演ずる、中性的なあの……切れ長で瞼がないかんじの、いつもぱっくり目を開けてる感じの」
名前が出なくて、んぐんぐ言っていると、そのお人形の作者登場。

「あ……ティルダ・スウィントンですか? 好きなんです。え、似てますか?」
「似てます。というか、ティルダ・スウィントンがモデルなのかと……」
「いえ、特に……」

ティルダは女性で、人形は男性なのだが。
ティルダ・スウィントンって、元来、全然まばたきしなそうな人です。

たまきさんのお人形にむかってサービスショットをお願いする私。
「この坊ちゃん、セーラー襟の内側、中ってどうなってるの、脱がせられる?」
と変態的な無理を言い、たまきさんに見せてもらう。
セーラー襟のスカーフをたまきさんに結び直してもらうエイサ君似の人形の、
この子……服も自分でまともに着られないで執事にやってもらうだなんて、まったく坊ちゃんね、
という雰囲気が際立って良かったです。

たしか以前も、
ドレス姿の人形に向かって、
「この子どうやってこのドレス着てるのかなあ、この襟元はどうなってるの、見たい……見たいなあ」
と熱烈に眺めていたら、たまきさんが師事してる先生がやってきて、
「実はこうなってますよ~実際にこの時代の女性の服もこんな感じで」
と軽く脱がせて見せてもらったことがあった気が……。
「下は? ペチコートですか、ペチコートだ!」
とかそういやぁキャッキャしてたよね自分。

「お人形って着せ替え欲がわくよね~」(by たまきさん)

まさにそれです。


逆効果 [か行]

次のニュースにびっくらこいた。

====================
海外経験は漏えいリスク 秘密保護法で内調

 海外で学んだ経験や働いた経験があると、国家機密を漏らす恐れが高まる―。10日施行の特定秘密保護法の制定過程で、同法を所管する内閣情報調査室(内調)がこうした考えを関係省庁に示し、学歴や職歴の調査が必要と強調していたことが7日、共同通信の情報公開請求で開示された政府文書で分かった。

 文書は内調が2011年11月、内閣法制局との会合で示したメモ。

 海外の学校や国内の外国人学校で教育を受けた経験、外国企業での勤務経験も挙げ「外国への特別な感情を醸成させる契機となる」「外国から働き掛けを受け、感化されやすい。秘密を自発的に漏えいする恐れが存在する」としている。
====================

これ、本気?
どんな裏が隠されているのか。

国家の中枢に居る官僚も、
エリートたちは一年やそこらハーバードだかに留学させてもらったりして、
海外の見聞を培うことも珍しくないはずでは。彼らもスパイ視するのか?

で、海外の教育機関や研究機関が合わずに、さっぱり使い物にならなくて帰ってくるか、
あるいは、海外でがっつり学んで学位やら技術やらを会得して戻ってくるかで、
大抵、海外を敵視する人は、海外生活が合わなかったり、
第一外国語が苦手とか、その手の案外、シンプルな理由なのだが、
個人が海外を毛嫌いする権利はいくらでもあれど、
国家が海外を嫌って敵視していては、お話にならない。

海外経験組と、国内派で、派閥争いでもやってるのか?
そもそも《国家機密》を知りうる海外経験者って、
おのずと海外赴任経験のある官僚(大使)とか、外交官とかに限られないか?
その良くわかんない派閥争いのせいで、無関係の多く、優秀な人材までが、
とばっちりを受ける法律が出来るのは勘弁。

要するに、国家がなんかお前気に入らないな、と思った時に、
お、海外経験あるじゃんか、と突っついて、
海外生活を理由にしょっぴける、ってことになってきますよね?
フルシチョフ政権か!
思想が合わないと、シベリア送りにするんですかね!?

国家的な接待をも受けうる、イチロー選手とか、スケートの羽生選手とか、
彼らもスパイ視してチェックすると?

日本の職場の待遇に不満をいだいて、
中村教授のように頭脳と技術とともに、出て行っちゃうパターンもけっこう見られるが、
有能な人にとって魅力的な環境を提供できないからといって、
スパイ視するのは本末転倒ぶりが甚だしい。
そんなこといってると頭脳はどんどん情報とともに流出しちゃうし、
なぜ有能な頭脳が海外に流出するか、その体質を見直して、対策を講ずるべきだろう。

また海外の過激派に与しやすい安直な人とは、
世界を知らない、特定の思想や哲学を持っていない人たち、
いわゆるノンポリ温室育ちのほうが、免疫がないゆえに洗脳されやすい。
案外、容易に感化されやすい傾向を、無視すべきでないのを、ご存じないのか。

国内に居たままでも海外と接することは可能な現代で、
《純粋培養》で育てられた、抵抗力ゼロの脆く軟弱な世界観では、
世界を相手にしたときに、容易に毒される。
赤子の手を捻るように籠絡されうるのに。

海外に対する抵抗力を高めていくためには、
海外で鍛えられている人員こそを登用すべきなのに。
適材適所がある。

過激派組織IS:アイエスや北朝鮮に対する過剰防衛反応なのかなあと、考えてはみるのだが、
海外駐在経験や、海外留学経験を尺度にして、
スパイや危険因子に目星をつけているようでは、
肝心なスパイや危険因子を見逃すことになりかねない。

海外経験者は、海外の良さも、日本の悪さも、
口に出そうと出さなかろうとある程度、身に染みていますが、
同時に海外の悪さも、日本の良さも、一般の一定以上にはリアルに分かっていたりします。

スパイ活動をしたり、情報漏えいに至る、
現在いる状況や所属する組織、国家を裏切るという人は、
現時点の自分の環境に、強い不満を抱いて、ストレスをためている人なんです。
スパイを徴募するスパイマニュアル的な文献を漁ると、このポイントが明確に見えてくるものです。

ストレスのない人などいない。
しかし人間、保身を考えますから、
どんなにストレスをためていても、
自分の存在価値を正しく認めてもらえる環境にあるならば、
人は簡単に裏切り行為に出られないものです。

むしろ自分の立場を顧みず、
裏切り行為に出ても構わないほどに困窮したり、ストレスが蓄積していないかどうか。
追い詰められていないか。
そのストレスリスクの尺度を明確に見極める戦略が練れないかぎり、
不審か否かを海外経験で線引きしても、
的外れな軋轢ばかりを生むだけなのではと思います。

海外経験は運転手の車輪であって、
高濃度に圧縮されたストレスという特殊燃料がないかぎり、暴走しないとしたら、
車輪のある車を軒並み検問チしても無駄で、
燃料をチェックすべきなんです。
暴走するのは車輪のある車ばかりとはかぎらない、
たとえば船の場合だってあるのです。

この良くわかんないニュースを流して、
なにか重要な意図が透けぬように、煙幕でも張っているのだろうか。
真に受けて良いのかどうかすら、悩みます。


「きちんとしてるは好ましいこと。節約は常識かつ美徳(日独共通)」 [か行]

NHKのBSをつけたら、たまたまやっていたドイツのニュースで、
(わたしドイツ語わからないので日本語で見てますが)
どうやらスマフォのアプリで、ジョギングの自己記録をネット上に登録し、
ドイツ中で記録の競走をするのが流行ってるっぽい、というニュースだったようなのだが、
(途中から、しかも流し見してたので、ざっくりとしか把握していない)
おかげで個人情報が、ある程度、駄々漏れらしいのである。
で、その個人情報にアクセスして何がなされているかというと、
企業に雇われた探偵が、
病欠とって休んでる人の、
ジョギング記録を更新してないか、チェックしているというのである。
病欠なのにジョギングしてる形跡があったら厄介なことになるでしょうね――と。

《シュタージかよ!》

と、心の内でわたしは烈しく突っ込みを入れました。
ドイツは東西統一してもうかなり経ちますけど、
国民性って根本的に、そうそう変わるもんじゃないんだな!

これ例えばアメリカだったら、プライバシー侵害であると抗議されるとか、
有給休暇とってるんだから、申告内容と違うアクティビティしてても文句あっかよ、
って感じかと思えるが……どうなんでしょう。
アメリカではなにか問題が生じて、裁判になったりしたときには、
「あなたは病欠と申告して、実はジョギングしてましたよね?」
と根掘り葉掘り、細かく激しく追及されそうだけれども、
ふだんは歴としてある善悪のラインをがっちり守ってさえいれば、
自己責任という名の下に、グレーゾーンはかなり幅が利き、呑気に自由に暮らせるかと。

なので、ドイツの管理社会の風潮を、とても異質に感じます。

そんなドイツさんと日本は国民性がちょっとばかし通ずる、と一部において有名ですが、
アメリカンでカナダ在住のおじいさん(ナチス時代のドイツを知ってるおじいさんで日本で暮らしてた経験もある)に以前そう言ったところ、
全然違う! 日本とドイツは全然ちがう! 一緒にしてはいけない、全然本当にまったくちがうから!
Nooooo!
と、どうやら日本を庇うつもりで、全否定されました。

たしかにドイツにおける鉄壁のルール遵守社会は、
日本の人情(?)と、融通とやらに、左右されるかんじと正反対なのですよね。


雷を避雷針から蓄電できませんか、と教授に尋ねて一笑に付されたことがある。 [か行]

(ちなみに一笑に付した教授は原子力でご飯たべてる系であった。震災前の話である。)

平成22年9月に、361kwhの電気を利用して、8039円が東京電力に領収されていたのだが、
平成26年8月現在、337kwhの電気使用で、10035円請求がくると、軽くへこみます。
使用量が減ってるのに、2000円も多く請求されるなんて、暴利だ……(泣)

2000円分を余計に使って領収されるなら、悲しくもないのだが、
減ってるのに……請求金額が増えている、この骨折り感。
最近は、電気炊飯器を使わずに、ガスコンロに鍋を使って、ご飯を炊いているというのに……。

……ガスで炊いたほうが、かなり上等な電気釜と比較しても、
時間は半分、おいしさは10倍増なので、
積極的にガスを使おうぜって理由で、節電のためとばかりも限らないのだが。

ほかにも節電家電を積極的に導入しているというのに。
これ以上は、この猛暑で、生命維持に関わるし、
自宅で仕事をしている私のような稼業の者には、減らしようがありません。

とかいうと、だから原発再開ですべて解決だよって躍起になる人たちがいるけれど、
そもそも原発なんぞに頼りきって、他の方法をおろそかにして芽を摘んできたから、
ツケがまわって、この有様なのだし、再導入とかもう意味が分からないわ。むう。

といっても、いきなりガスのエネファームを導入する勇気もない、
住居の抜本的な工事全般が苦手で避けたい以上、
このブログで嘆くくらいしか、私には当面、術がない。


吉祥寺バウスシアター [か行]

閉まっちゃったんですね。
終わっちゃったんですね。6月10に。
知らなかった……。

ミニシアター系の貴重な映画館で、
あまり近隣で放映しないマニアックな映画や、
名画座的なロードショーとか、
いまどき珍しいオールナイトとかもやっていたりと、
ヴァラエティに富んで、
吉祥寺のサンロードの中にあって、良い映画館でした。

かといい単館系のみに固執してもいなくて、
スクリーンも複数あり、
ブロックバスター的なポピュラー作品も多数放映してきて、
ある友人と並んで整理券をもらって、ハリポタⅣ『炎のゴブレット』を見たのはここだったし、
またある友人と整理券順に入場して、ヱヴァの序・破・Qを見たのもバウスだったよ……。

かつまた、本気で映画好きが集う映画館といいますか、
ふらっと一人で立ち寄って見るのに、かなり居心地の良い映画館でした。
観客の大半が、ふらっと一人で見に来てるので。
一人で、クリント・イーストウッド監督作の『ミスティック・リバー』を見たのもここだったし、
一人でケン・ローチ監督作の『麦の穂をゆらす風』を見たのもここです。

『麦の穂をゆらす風』は映画自体も良かったけど、
この映画館で見たからよけいに沁みたんじゃないかっていうくらい、
客層が良かったのが、印象に残っています。
映画大好きなんだ、って感じの人たちが男女問わず一人で来て、
めいめい一人で座って、一人で去っていく感じ。

そういうところが、アメリカの映画館みたいで、わたしも好んで行ってました。
(もちろんアメリカ人だって、連れだって映画を見に行くんですが、
アメリカの映画館のほうが一人で見ていても、概して居心地が悪くありません。
あと映画館は夜でもまず安全。映画にのみ興味をもって映画館に来るひとばっかりだから。)

ずっとこの映画館の中に暮らしていたいかんじのひとときを提供してくれる、
映画をまっすぐ見るためだけにやってきて、映画見て、違う世界に入りこんで、
黙って帰っていける映画館でした。



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小手先とは緻密な攻防だ [か行]

ロシア・ソチの冬季オリンピック、
フィギュアスケートやアイスダンスなど、
ちょくちょくテレビで見ています。

で、みんなロシアに寄せてきてる~。

上位選手は、選曲だったり衣装だったり、あるいは両方だったり、演出面において、
開催地ロシアを猛烈に意識して、ロシアに敬意を払っていますね。
端的にいえば、各国選手がロシアっぽい、です。すごく。

ざっくばらんにいえば、ロシア受けをものすごく意識してます。

(ロシア選手はいっぽうロシアっぽさをかなり全面に出してアピールしつつも、
お国芸っぽさがしつこくて辟易されぬよう、
海外ウケもする、ハリウッド映画とかに使われる題材を選んでる者が多いですね。)

ふだん猛烈にアメリカっぽ! ハリウッドっぽい演出がお得意の選手たちであろうと、
軒並み、ロシアっぽい味付けに寄せてきていて、
それが付け焼刃でみっともない露骨な媚び、といえばそうではなく、
ロシア人の遺伝子に組み込まれちゃってどうにも響かずにいられない曲調とか、衣装とかを、
的確に選んできているのかわかります。

うわー、このリズムはロシア的でロシア人好きだよぜったい、
かつ世界中のみんなもロシアの民族や伝統のこういうところは嫌いじゃないよね、
ついでに自分たちもこの手の美意識、好みなんだろうな、
というのを無理なくやっているので厭味がないです。

審査員はロシア人観衆じゃなく、各国のスケートの審査員がジャッジするわけだから、
んなもん点数に反映されないだろうと思われるかもしれないが、
関係があるんじゃないかと、私は思う。

オリンピックってやはり特殊で、
ふだんスケートを見ていない人も観客席にいるだろうし、
観客席が吸いこまれるように鑑賞して、
身を乗りだし、拍手喝采していて波打っていれば、審査員も人間です。
会場の大衆の雰囲気に、猛烈に呑まれます。
テレビで見ている私たちより、きっとずっと呑まれやすいかと。

コンポーネントスコア(演出)のポイントってのは、
観衆をいかに魅了できるかを点数にするようなもんだから、
観衆にプレゼンテーションされ、その反応が顕著に表れている雰囲気に、左右されないわけがない。

前回のカナダバンクーバー冬季五輪でキム・ヨナの点数がやけに高かった、
演目は欧米英語圏の会場でウケのいい『007』だった。
もう会場が沸いてましたもの。あの会場ウケに審査員がすごく左右されていたように見えた。

イタリア・トリノでの荒川静香のすんばらしいプッチーニの演目も、
開催地がイタリアのトリノで、オペラのプッチーニですもの!
イタリアの地元観客の、魂の遺伝子にジャストミートです。

んでもって内容はシノワズリのトゥーランドット! 
(黒髪のアジア人が演じたほうが内容にそぐう。)
いやでも魅了されるところに、あのすばらしい技術と表現力でハートを射抜く、と。

日本人選手嫌いなんだよとか、べつのひいきの選手がいるから気に食わねえんだよ、
というヘンテコなステレオタイプを抱いていたとしても、
かかる狭い料簡を、払拭するくらいの効果はあると思います。

(で、オリンピックというのは皆、国の威信だのなんだので、自国の選手をやみくもに応援して、
他の大会とくらべて、正しく選手の技量が判断できにくい土壌にあるかもしれない)

そういう表現方法を「小手先」とかいってバカにする類の人がいるが、
小手先の集大成が緻密な技巧につながる。

むろんそういうのを嫌って、自分らしさで挑むのも猛烈にカッコいいが、
そこはハードルの高い不利な挑戦を意識したうえで、
それでも有無を言わせぬ、余裕の力量を見せつけてやるんだという意気込みできっといる。

いずれにせよ、そこまで意識できる選手が上位メダルを取ってるんだなあ~

と、想像して見ています。

クレヨンの使い道は [か行]

海外ドラマ『HOMELAND』が面白すぎる。
面白いといっても愉快な話ではまったくないし、いつもけっこう痛々しいが、いちいち良い。

海外ドラマを正座して見るかんじって本当に久しぶり。
わたしはDLifeで見ていますが、TBSでもやってるようです。

7~8年間アルカイダに勾留され、拷問をうけつづけてやっと帰還した復員兵が、
アルカイダに転身していてあっち側のスパイになっている。
そう一人の敏腕だが問題児でもある女性諜報員(クレア・ディーンズ)が疑い、
盗聴するところから始まって、いろいろあるわけです。が、
なんやかんやで今は盗聴してないし、
アメリカでの放送当時に見ていたら……さすがにそこまでしないんじゃ……過激だなあと思ったろう。

実際のところアメリカさんはTVの想像をこえてアメリカ国土を超えて盗聴しまくっていたわけで、
しゃれになっていません。

帰還兵の家族のリアクションとか、それぞれの努力と歩み寄り、擦れ違い、
拷問のトラウマやらCIA内の人間関係とか、
手を抜かないできちんとリアルに盛り上げていく人間ドラマなんだが、
スパイとかテロリストとかの、規模がでっかい犯罪ドラマでもあるので、
緊張感の糸が複雑にからみあっていて切れることなく、まあ見ごたえある。

アメリカのドラマってわりと一話完結で謎が解決し、
人間模様がシリーズを通じて進化していく展開が定石で、
いっぽうこのドラマは緻密なあるある描写と、でっかいストーリー展開で果敢に挑んで、力が入ってます。

取調室で「スパイの名前を書け」と紙とクレヨンを渡すシーンがあって、
なぜにクレヨン?
と思ったのだが、自殺したり、尋問者を攻撃したりさせない用心にクレヨンなんだな。

訓練された工作員が、ボールペン一本、あるいは鉛筆一本で、
尋問者の目を攻撃したり、手の甲に突き刺して机に磔にしたり、頸動脈にぶっさしたりするの、
そういえばいろんな映画で見飽きるほど見てきたものな……。
そろそろCIAも学ばなきゃバカよね……。


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季節感 [か行]

『八重の桜』を見つつ、うんんん~とうなる。

史実での尚之助さん(川崎尚之助)が死ぬのは冬場だったはず……!

3月ではなかったか。
春を間際に夢見ながらも……帝都の桜の季節を間近にしながらも、
まだまだ寒い凍える時節に、肺炎だかで東京で死ぬのですよね。
有名な人じゃないので実際のところその記録がどうなんだかわかんないけど、そういうことになっている。

が、八重の桜では、おもいっきり夏場に……

放映のこの季節感にあわせて晩夏に死んでたように見えたが……。

物語は『八重の桜』っていうタイトル。
その作中で、かつて苦楽を共にした伴侶だった川崎尚之助が、
桜の季節を目前にしながら、寒さの中で、主人公の八重とはなればなれで、
訴訟中さびしく病死するのが史実なのに!
史実かつ劇的かつ象徴的な季節感。
それを、うだるような晩夏にかえちゃう必要性ってあるの!?

(あんまり桜のはなびらヒラヒラ演出が過剰なのもベタで虫唾が走るけれども。
史実なのだし淡々とやってくれれば、それまでの人生に区切りがつけられ、
主人公に新たな予兆を感じさせる季節感が、いやがおうにも演出できるというのにだ。
せっかくボロボロの尚之助さんが、いい感じだったのに。)

歴史ものなのに、季節感をむやみにいじって、
今の季節にあわせて史実を変える演出上の意味ってあるのかしらー。

現代もの(?)の『あまちゃん』だって、いま2011年3月11日をやっているのに。
(9月の防災の日にあわせて、むしろ見事なマッチング)

それまでも『八重の桜』、ちょくちょく色々、史実とされる部分を変えてきているけど……
ドキュメンタリーじゃない大河ドラマなのだし、
ドラマチックにするために必要なのはわかる。
あるいはテレビで万人向けの放映をするために、制限が多いのもすごくわかる。
妥協点を模索しつつもそれでも充分、面白かったのだが……。

今日の季節変更にいたっては、うんんんん……と頭を悩ませるのだった。
冬に死ぬのと、夏に死ぬのと、全然ちがうし、なんの配慮……?

歴史ものであれ、物語ってのは、
この現実から物語の世界観への脳内小旅行なわけで、
物語の季節感が、現実の生活と歩み寄って、敷居を低くするのは時として大事だし、
一見すると気が利いている。
が、あんまり物語が現実に迎合しすぎると、それはそれで茶番に……。

さじ加減ですね。

金貨の価値 [か行]

そういえばラピュタ前半でパズーがムスカにシータを心ならずも引き渡し、
暗黙裡に「この金で手を引け」と諭されて、金貨3枚で、すごすご戻ってきたくだり。
金貨三枚って、1枚一万円くらいで三万円くらい?
ムスカのポケットマネーっぽいし、帰りの交通費+かすり傷を負った治療費くらいかなあ?

かねてよりそう思っていたのだ。

ただそれだと、タイガーモス号にて「ゴリアテを最初に発見したものに、金貨10枚を出すよ」
と聞いて、
乗組員が「10枚!」
とテンションがめっちゃ上がっていたのが、不自然。
十万円だとすると、乗組員が大はしゃぎする報酬としては安い気がする……。

ファンタジー設定なので正確な時代はわからないが、自動車(オートモービル)が珍しいと称されるのだから、1900年ごろかなあ。
当時の金貨の値段を調べても、貨幣価値が違うし、
当時の物価がいまいちわからんのでな……。

あの大きさの金貨はおそらく1オンスでは、と仮定する。
現在1オンス・ウィーン金貨が約15万円で取引されてますね。
現在、金の価値は高騰してますが、
ラピュタ作中で「銀どころか錫さえ出ない」とあるので、たぶん金の価値は今以上だったろう。
1オンス金貨1枚=20万相当と、超ざっくり見積もってみる。
3枚でシータを引き渡してきたとなると、60万円か……。

(これなら、ゴリアテ発見者には金貨10枚のボーナス!=200万円。妥当かな)

え……っ、えぐい!
大事な少女を引き渡したその見返りの額として、60万円。エグイ金額!
パズーさん!

勤労少年なので、労働の苦労を知っているからこそ、
無理やり掌に握らされた金貨を投げつけて捨ててこられなかった……その気持ちは、すっごくわかる。
だけど、「君も男なら聞き分けたまえ」と言われて、60万円を握らされて、
その60万円をポケットに入れてすごすご帰宅……とすると、
非常にリアルで、もはや恥ずべき金額だな……。

命がけで要塞からシータを取り戻すのも、一生懸命な命がけ!
というだけでなく、まっすぐで潔い少年だからこそよけい、
後ろめたさに後押しされた部分はさぞや大きかったろうな……。