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山姥切国広と足利学校@足利市政100周年記念特別展 [や行]

「武と美」戦国武将足利長尾の武と美──その命脈は永遠に──

けっこう前……かなり前、3月頭になるが、栃木県足利まで見に行ったんだった。

すぐにブログに書きたかったのだが、その後、色々と立てこんでいたのである。
私が生きてきた中で、五本の指に入るレベルの心労が絶えない日々が続いて──しばらくはとてもブログを書く余裕が無かった。
人の生死に関わる出来事が重なっていた。
(なお仕事関連や、新型コロナ、ウクライナ情勢などとは無関係の心労です。)

今となっては、片道2時間半、往復5時間弱かけて栃木の足利まで日帰りで、足利学校と重要文化財の山姥切国広を一人で見に行った、この弾丸小旅行的な一日に養った英気のおかげで、精神が片時も休まらないしんどい日々を、辛うじてしのげた気もしている。

國廣再臨
足利市の市政100周年記念特別展として、年末年始に足利市が予約の受付を開始。
その頃はデルタ株が沈静化して、もしかしたら、このまま一気に新型コロナが収束&終息するのでは、ともみえた。私は気軽に申し込み、運よく予約が取れていたのである。

今回、私がどうしても行きたかったのは、一つにジンクス的な意味合いもあって。
私はあまりジンクスにこだわる質ではないのだけれど、5年前の山姥切国広公開の時に、病み上がりで行けなかった。
今回のタイトルが再臨なのは、5年前が國廣降臨にあたるわけだろう。
5年前の当時も、2月~3月の寒空の下、足利市立美術館では待機用のテントが用意されたりと、かなり待ち時間の苦痛を和らげる工夫がされていたようではあった。が、関東といえども北関東。雨が降れば必ずみぞれまじり……みたいな天気が普通の季節に、屋外で長時間、待機するなんて私には無理だった。

その際に「次の機会には絶対に行くんだ、必ず行きたい」と強く心に誓っていたので、なんとしても相見えたい気持ちが、今回かなり強かった。
たぶん人より強かったんじゃないかな。
いや、わかんないけども。

この山姥切国広(重要文化財)、刀剣乱舞に親しんでいる人には周知の事実なのだが、個人所有の刀剣。
美術館や博物館が所蔵していて定期的な公開を期待できる、という代物ではない。
「おっきいこんのすけの刀剣散歩」でも、テレビ放映はされたが、たしか所有者の希望でDVDに収録されてはいないはず。
つまり滅多にお目にかかれない秘蔵の刀剣なわけで。

刀剣好きにとってはそう、お披露目の機会を逃したくないってのが心情。

2022年2月11日~3月27日に足利市と刀剣乱舞がコラボして開催された、この「國廣再臨」
今回は新型コロナ感染対策のため、事前に予約を取れた人のみが美術館に入館できるシステム。
つまり遠くから赴いた上に、長蛇の列に並んで、館内で押し合いへし合いする必要がない。
私にとっては、かなり有難いお膳立てである。
これはもう行くしかない。一人でサッと行って、パッと帰ってこよう──と。

私の予約は3月の頭、午後3時半~の枠でした。
観覧時間は1時間程度との決まりです。

当日、足利に到着するまでに、小さい様々なハプニングを経て、現地に。
小さなハプニングの数々は、いちいち列挙するのは野暮だから割愛するが、ひとつだけ言うなら……家を出て、アスファルト舗道を歩き出したとたんに、肩からかけたバッグのショルダーストラップが切れた。

えいっ
と、ずりおちかけたバッグを肩にかけなおした途端に、正確に言えばストラップと鞄を止めている金具が割れて、バッグが地面に落ちた。
長年、愛用して重宝している鞄なのである。
先日もファスナーが壊れて修理に出して、直ったばかりなんだぞ……。

これが気乗りしないイベントだったら、この時点で私はお出かけを取りやめてましたね。
単独での外出ならではで、行くも行かぬも、自分の胸三寸。

常備薬やら、外出先で小腹を満たすための健康補水液やら、アレルギーが多い私でも食べられる自前のおやつ、アルコール除菌のウェットティッシュや、予備のマスク……あれやこれや詰めてある。
鞄の中身を別の鞄へと詰め替えている時間的余裕はない。
とりあえず屋内に戻り、別の鞄のショルダーストラップに付け替えた。
ちょっと細くて頼りないけど、まあ行ける。
いざ足利へ。

いったん家に戻ったせいで、予定していた東武鉄道の特急(1時間に約1本の)に、間に合わなくなった。急遽、電車の中でタブレットで調べつつ、鈍行を乗り継ぐ。

私の最寄り駅だと、御茶ノ水から秋葉原を経由して都心を抜ける行きかたと、西国分寺から南浦和を経由していく比較的すいている行きかたと、かかる時間も料金も同じ。

オミクロン株の感染者数が減少傾向に転じて、1週間くらいたった頃合いだったとはいえ、感染者数が東京都より圧倒的に少ない足利市に行くのである。
わざわざ感染者数の多い都会を通っていくことは望ましくないし、私自身も感染リスクが少ない行きかたをしたかった。

中央線の西国分寺駅から、武蔵野線に乗り換えて、南浦和へ。この間、移動時間約30分。
南浦和駅から京浜東北線で、浦和駅まで。1駅移動。
ここで12分くらい電車を待って、浦和駅から宇都宮線で久喜駅まで。この間、移動時間約30分。
久喜駅から東武伊勢崎線館林行きで、館林まで。この間、移動時間約30分。
──そっか、ここが真夏の最高気温ランキングで有名な館林かあ~。
館林駅から東武伊勢崎線太田行きで、足利市まで。この間、移動時間約15分。
足利市駅からタクシーで足利学校まで。移動時間、約5分。

足利学校には午後2時50分に到着。

足利学校は、私が訪れた時期、午後4時には閉まるのでした。
足利学校には絶対に行きたかったし、また足利学校の入場チケットを見せると、美術館のチケットが2割引きになるという、コラボ企画。
美術館とセットで観覧することが推奨されていた。

実際、行ってみて、かなり良かったです。


中里友香による2022年初春足利学校&國廣再臨

なるべく人物を避けて撮ったつもりなのだが、どなたかが写りこんでしまっている部分は、無骨だが加工をしています。右下コーナーの矢印をクリックすると拡大します。

足利学校は入ってまず遺蹟図書館があり(写真では赤い三角コーンが並んでいるところが入口)、小さな図書館に刀剣六振り程が展示されていた。
源清麿(環名義)作の脇差、大和守安定作の刀剣、加州清光作の刀剣など。
これだけでもかなり満足。

史跡足利学校のTwitter

源清麿は青年期「環」と銘打っており、青年期の傑作の脇差があった。
この時ばかりは、いつも刀剣を一緒に見に行くならこの友人、という高校時代からの友人で人形作家のたまきさんと、一緒にここに来られたらよかったのになあ、と思わずにはいられなかった。
環(たまき)だもの。

東郷平八郎が手ずから植えたという月桂樹が植わっていたり。
東郷平八郎と言うと、日露戦争海戦の「本日天気晴朗ナレドモ波高シ」の三笠の指揮官だった人ですよね、くらいしか知らないが……。

松と竹と梅の取り合わせが美しかった。
松竹梅というと、格付けランクや日本酒の名前といった、あまりにも世俗的な使われ方をしすぎで、太宰治が富士山を「風呂屋のペンキ絵だ、芝居の書割だ」俗っぽくてみっともない云々と言ったように、松竹梅と文字で書きならべると、なんかダサいイメージがあったのだが。
実際に松と竹と満開の梅が、お互いを引き立てあっているのを目の当たりにすると、これは目に嬉しい、みずみずしい風景なんだなあ……と。

足利学校は全体の趣、とくに方丈エリア(学校の母屋部分)の雰囲気がかなりアニメ『鬼滅の刃』の産屋敷邸を思わす造りでした。親方様のお屋敷。

特筆すべきは茅葺き屋根。感動的であった。
なにしろ私は一番好きな屋根が、茅葺き屋根なのだ。二番目が銅葺き。三番目が本瓦葺き。
本瓦葺きと茅葺き屋根が融合した建物が存分に見られて、満足だった。

こういう茅葺き屋根から、鳥が巣材を啄んで持ち去っていく光景が、日常的に見られたんだろうなあ。

「長時間の縁側使用はご遠慮ください」という貼紙があるとおり、みんなこの縁側で長時間くつろぎたくなるような場所で、大きく深い軒下に、高床の縁側が広々と伸びていて、眩しすぎず暗すぎず、風通しも最高の空間。
私の小説を読んでいる人は分かると思うが、たとえば『みがかヌかがみ』で、紗葵子さんと叔父様がたびたび語らう場面も、古びた寺社系の縁側だし、こういう縁側はかなり好きな場所で、本当に素敵だった。

ちなみにこの縁側、高さは地面から1 メートル10㎝ほど。
ざっくり体で測った。私が地面に立った時に、肘の位置にあたる。
ちなみに我が家のキッチンカウンターが大体この位置にある。

馬上の景色と同じで、現代社会においてあまりなじみのない目線を楽しめる高さにあり、見晴らしが適度で素晴らしい。
また茅葺き屋根ならでは、雨が降った時に軒先から、しとしとと、おそらく雫が垂れつづけるその下に石造りの用水路みたいなのがあって、風情満点。
現代だとかわりに屋根には樋がかけられていて、地面には雨水枡が埋められているわけだが。

茅葺き屋根とか、漆喰の壁とか……いずれも施せる熟練の職人がどんどん減っているわけで、もう情緒に欠けはするが、住宅メーカーが漆喰パネルとかをどんどんこさえて、もっと新築マンションやら新築戸建てやらリフォームとかで、手軽に扱えるようにしてくれたらいいのに……。

茅葺き屋根も、住宅メーカーが萱の束と、屋根の型紙みたいなのをこさえて、熟練職人でなくとも、ここに萱の束を据えれば茅葺きができあがる、というプレハブ的な住宅キットを作ってくれるのでも構わないから、もっと当たり前に普及していてほしい……。

午後3時15分。
やや駆け足気味でも十分満喫しつつの観覧を終え、タクシー会社に携帯で電話を入れる。
足利市駅からタクシーに乗った時のレシートを利用して電話をかけ、5分ほどでタクシーが来てくれた。
足利市立美術館へ。

秒で到着。

荷物も重かったし、道に迷うと面倒なのでタクシーを利用して良かったと思っているが、まさかここまで近いとは思わなんだ。
駅からの道筋で足利市立美術館を脇に見ながらタクシーで来たので、位置を把握していたつもりだったが、同じ道筋を使わなかった。どうやら一方通行の都合かと。
足利学校から美術館は、ショートカットで一気に来られた。

足利市立美術館は想像していたよりも、ずっと大きく立派な建物であった。
予約のQR コード見せて、足利学校のチケットも合わせて提示し、入場券を購入。

荷物を受付であずけることができたのが、とてもありがたかった。
なにしろ荷物が重くて、かさばるので。
ホテルのクロークのように、引き換えに番号札をもらうシステムで、サービスが完璧でした。

中は基本的に撮影禁止。
ただ刀剣乱舞とコラボのパネルと、足利市立美術館に山姥切国広が2017年に展示されたときの、特別記念イラストを写真に撮ることはできるとのこと。
で、カメラと貴重品だけ持って、ちょっと並んで3時半まで待って、中に入りました。

まず重要美術品で國廣作の脇差がしょっぱなに展示されていた。
https://www.city.ashikaga.tochigi.jp/uploaded/image/66541.jpg
これが状態も良いし、きらびやかでとても美しく、いやがうえにも期待が高まる。
正直、この脇差(ほぼ短刀サイズ)が相当綺麗だったので、期待値が上がりすぎていた気がしないでもない……。

お目当ての山姥切国広は、大振りの打刀で、丹精だった。
大振りでのびやかなのに、なぜか非常に頑なな印象を与える刀で、刀剣乱舞における付喪神の姿と性格設定は、かなりイメージ通り。
この刀剣を人間の姿に顕現させたら、かくあらんという状態で、すごい再現率だなあと。

刀剣乱舞は実際の刀と、人の姿をして描かれる付喪神のルックスとかなり乖離しているものも多く、そのギャップ設定が魅力である場合も少なくないので、こうも現物とマッチしているとは意外ですらあった。

一見して華やかで、人目を惹く魅力にあふれる──という感じは、私は全くしなかった。
離れたところから呼ばれた気がするほど魅力にあふれる刀剣というのにも結構、相まみえてきているが、山姥切国広は、もっと寡黙な佇まい。地味なわけではないのにだ。

目線を刀剣に合わせてしゃがみこみ、地肌を舐めるように眺めていくと、光の加減で刃文がより浮きあがって映る。その加減が貝殻の裏側のような真珠めいた光沢を放っていて、ひめやかに美しくて、だからちょうど、ぱっと見は目が合わない、合わせようとすると目を逸らされる感じ。
臆さず顔を覗きこんで瞳をじっくり見ると「あ……超きれい」
みたいな印象でした。
かなり刀剣乱舞の山姥切国広とマッチする。

あとこれは私の勝手な見方だが、長義の写しを打とうとこだわるあまりに、長義の型にはめようとしすぎていて、これ、写しでなければ國廣はもっと良いのびのびとした刀剣を打てたんじゃないか。
傑作・山姥切国広は、写しでなければ國廣の最高傑作になりえたんじゃないか……
という気すらチラとした。
とはいえ、そもそも國廣が本作長義にインスパイアされていなければ、この刀を打とうとは思わなかったのだから、本作長義あっての山姥切国広なのは間違いないのだ……。

他にも、高倉健が収集していて寄贈した刀などがありました。

途中、展示室を移動する際に、学芸員さんだろうか、紙を見せられ、小声で説明を。
「ただいまテレビ局が取材に来ています(と番組名の書かれた紙を見せられた。NHKの所さんの番組だった)。今ちょうど休憩中ですが、ちょっと前まで撮影をしていました。またすぐに撮影が再開されます。それでもし、お客様に不都合やご迷惑がかかるようなことがありましたら、こちらまで遠慮せずに言ってください」
なるほど。わかりました。ありがとうございます。

確かにNHKのカメラクルーが隅っこで円陣を組むように、たむろっていて、そこだけ違う空気が流れていた。

刀剣以外の展示物で興味深かったのは、やはり足利学校絡みのもの。
中でも私が棒立ちになって見入ったのは、江戸時代の「活字」

https://www.city.ashikaga.tochigi.jp/uploaded/image/66539.jpg
https://www.city.ashikaga.tochigi.jp/uploaded/image/66540.jpg

慶長木活字とか、伏見版木活字とか、駿河版銅活字とかが、箱に入っている。
熱心に見ていたら、監視員さんに声をかけられる。
「あの……お客様、お召し物が……」
「はい? あ、ありがとうございます!」
館内は温かいので、ショールを首から外して、腕に絡めて持っていたつもりなのだが。
展示物に見入りすぎて、ショールの片側が床について、ずって歩いていたのである。
我ながら熱心に見すぎ……だってとても興味深くて……。

展示室を出るとNHKの所さんの番組のクルーが、女性の学芸員?……を、カツアゲレベルに取り囲んで取材と撮影をしているところであった。
もう一度あそこに行って、見ておきたいなあ……と思っていた展示室だったけれど、おのずと遠慮せずにはいられなかった。

最後に階下におりて、刀剣乱舞の山姥切国広のパネル&記念祝賀を撮影。
記念祝賀はとても綺麗で、もっとじっくり見たかったかな。
写真ではその良さが半分も映っていないかも……。

受付に戻って、ネット予約をしておいた図録を購入。
クロークから荷物を受け取り、帰路へ。

本当は「蝶や」というお店で、ローストビーフの冷凍をお土産に買って帰りたかった。
図録が重く(良い紙を使っているし内容も濃いから満足なのだが、重いことには違いない)冷凍のお土産はこれ以上重くなるから無理だな……と断念。

帰りはタクシーを使わず、美術館から歩きました。
足利市駅まで徒歩10分。
──渡良瀬川だ……。

足利学校の母屋(復元)が茅葺き屋根ということは、当時近くで素材が容易に入手できたはず。一体どこから集めてきたんだろうか……と思っていたのだが、渡良瀬川か。
萱やら葦やら、材料には困らなかったはずだ。

ところで都内の信号機は私の知る限り、すべてLEDになっており、青信号とは黒地に青(緑)の人物が立っている標識に変わっている。
LEDはコストの面では優秀だけれど、時と場所によっては視認性が劣る局面もある。
足利で昔ながらの青信号が横断歩道に灯っているのを見て、知らない初めての土地なのに、安心感がすごかった。

足利市駅で東武鉄道の特急チケットを購入。
帰りは東部特急りょうもうを利用。
昼間はダウンコートが場違いな天候だったのに、ホームで特急を待っている間、日没間際の河川敷近くで、一挙に猛烈に冷えこんだ。ダウンにショールに手袋に……良かった、カイロを持ってきて……。
さすがの河川敷、空気が全く違いました。

特急(全席指定)に乗りこみ、いざ帰路へ。
空いていました。
日がほぼ落ちて、眩しくはない。外はまだ薄明るい。
車窓の景色を眺めていたら、外は本当に何もないような景色が延々と続いて……たまにバラックのような建物があって……あ……中に何かいる。
牛だ。あのフォルムは肉牛だな。
栃木和牛と看板が。ブランド牛肉なのか……。
蝶やでお土産を買ってこなかったのは、惜しかったかもなあ。

……などと気ままに思いながら、滞在時間は2時間程度ではあったけれど、ああ良い小旅行だったなあという感慨がひしひしと。この手の遠出は実に3年ぶりでした。

四方山話 [や行]

去年の夏に行くはずだった身内の墓参に、先日ようやっと行ってきた。
昨年の夏は体調が悪すぎてとても遠出できず、今頃になったわけだが、
在来線と新幹線とで、自宅から1時間半ちょいくらいのところにある地方都市の駅に着くと、
なにやら駅から賑わっている。

今までは、GWか、さもなくば夏の花火大会の時に行くのがもっぱらだったから、
若者が浴衣やらを着て、しゃれ込んでいる賑わいの渦中をかいくぐって進むのだった。
今回はお年寄りがなぜか多い。
若者の地方離れ……? いや、お年寄りがとても多い。賑わっているという意味で多い。
なんか……やってるぞ……。

地元に住んでいる叔母が教えてくれたのだが、
「えびす講」とやらで。
言葉だけだと、ねずみ講に似てもいる……。

一緒に墓参に出向いた親は、合点がいったように「ああ、えびす講か!」
なんです、それ……。
「海外で、クリスマスの翌日に大セールするみたいな日があるでしょう」
「Boxing Dayのこと? カナダね。アメリカでもセールするけどBoxing Dayとは言わないから」
「そういう感じで商店が一斉に売り出しする、商いのお祭りで、たくさん市が立つんだよ」
「えびすこう……初めて聞いた」
そういう、ならいに無縁すぎて、今まで全く知らずにきたぞ。

叔母の注釈が入る。
「お百姓さんが秋の作物を刈り終える頃合いでしょう。
昔は、その収穫物を町まで売りにきて、手元に現金が入ると、
そのお金で日常のちょっとした贅沢品を買う。
そのための市が立ったのがえびす講……かくかくしかじか」

で、ここから今回ブログはえびす講から思いっきり話は飛躍するというか、逸れるんですが、
こう……親と叔母の双方から、
一つのことに関して違う視点の説明をされるというある種、懐かしい状況に、
私は、小学生の時に見た年末時代劇『白虎隊』
神保雪子の自害シーンを思い出すのであった。


https://youtu.be/XKFnFqShHVQ?t=105
bycotai28
神保雪子の自害場面は1分45秒~5分47秒。

神保雪子は神保修理の妻で、会津戦争の最中、敵側に捕まって自害する。
当時、年末に家族で見ているときに、親が、
「なんで自分で膝を縛るかわかる? 自分が逃げちゃわないようにだよ」と。

死のうとしていても、刃物で咽を刺すときに、つい怖くて体が逃げようとのけ反って、
うまく死ねないかもしれない。だから体を固定して身動きをつかなくするんだな。
と、私は趣旨を理解した。

その後、叔母の家に遊びにいって、この『白虎隊』のビデオを叔母と二人で見ていたとき、
他のきょうだい・いとこ組は皆、よそで遊んでいたと思う。
私はこの作品が好きだったこともあり、
また年齢層や趣味やらが違っていて「みそっかす」扱いされていたので、
良くも悪くも特別に見せてもらっていた気がするが……
叔母が、「どうして縛るかわかる?」と。
「女の人が自害して倒れたときに、着物の裾がビランとめくれて足が見えたら、みっともないでしょ。
そうならないようにだよ」

武家の奥方は死ぬときも身だしなみに気を遣うのだ。

「うちでは『自分で体が逃げちゃわないように』って聞いた」
「……それもある」

家に帰って、かくかくしかじか叔母さんは神保雪子のシーンをこう説明した、と親に告げると、
「たしかに。それもある」

こういうハイコンテクストの所作があるシーン、
言い換えれば奥行きのある場面が(創作物において)好きなのだが、
おもえばドラマや映画などで、生まれて初めて出くわしたハイコンテクストの場面というのは、
この神保雪子が膝を縛るシーンだった。

『白虎隊』は自害シーンが本当に多く、会津戦争のむごたらしさを物語っていて、
その数々の自害シーンの中で、特に神保雪子のシーンが印象的だったのは、
膝を縛ってみせるというハイコンテクストの所作があったからかもしれません。

ちなみに私は当時、なぜ神保雪子さんが膝を縛るか──
「覚悟を見せるためだ」と思っていました。

話が分かりそうな侍に「お腰のものをお貸し戴けませぬか」と頼んで、
相手が「逃げろ」とか、「じゃあ介錯」と情けをかけてくれるのに対して、
もはや逃げる気などない、自分でやるから貸してくれ、
そう言い募るにあたって、言い争っていられる状況でもない。相手は敵方の男であって。
おなごの言葉など強く言っても、うけがってもらえまい。
食い下がる気力もない。手っ取り早く「逃げない。やれます。心配はご無用ですから」と、
無言のうちに有無を言わさず、上品かつ的確に伝えるため。

なお、神保雪子が介錯を「いえ、もったいない」と固辞するのが
当時、私にはわからなかったのだが、
今にして思えば、
夫の神保修理が、殿の責任の肩代わりをして、詰め腹を切らされたときに、
介錯もなく自害させられたことが脳裏にあったのかもなあ……。
(史実は介錯があったのか知りませんが、ドラマの中では介錯もなく自害した……。)

ちなみに史実では、神保雪子に自害の刀を貸した、この土佐藩の吉松速之助は、
のちに西南戦争で西郷軍を相手に、戦死しています。

『白虎隊』と言うタイトルにも関わらず、
このドラマでもう一つものすごく印象に残っているシーンは、
田中土佐(佐藤慶)と神保内蔵助(丹波哲郎)、家老二人の場面ですね。
『白虎隊』で一つだけ良いシーンを挙げよと言われたら、私はこのシーンを挙げる。


bycotai24
https://youtu.be/aRf0FGB14Zw?t=394
6分35秒~9分11秒

佐藤慶と丹波哲郎という両者が名優、好演に決まっているのだが、
当時は、そんな名前を一切知らず、
ただただ、じいさんどもがなんか凄かったのだった。
今見ても本当に中身が濃い。

台詞の間(ま)とかね……この二人は物語の脇を固めており、つまり主軸というわけでもなく、
この二人がこんなふうに、二人一緒に同席するシーンは、これまでほぼない。
なのに、
「この二人は、子供の頃から学問所で一緒に学んで、
切磋琢磨して、お互い家老になって(第二・第三家老)、
お互いの冠婚葬祭とかも、時には家族ぐるみで支えあってつきあってきたんだなあ」
と。
酸いも甘いも共に乗り越えてきた、古なじみの空気感を、
たったの3分弱のうちに、的確に見せてくるんだ。

……しっかし今回、
墓参でちょっと遠出してみて、
たまに見かけるオシャレ度のとても高い、地方都市の若者は男女問わず、
なぜ皆ちょいヤンキー色がチラつきがちなのか……
気になった……。

ゆく河の流れは絶えずして [や行]

NHKスペシャル大江戸第一集「世界最大!! サムライが築いた“水の都”
こちら楽しみにしていた。
http://www.nhk-ondemand.jp/goods/G2018086551SC000/?capid=nte001

オーストリアで発見された150年ほど前の写真を復元して、
世界最古の江戸の写真をカラー化、という、とてつもないドキワク感。
そのカラー化した写真に映っていた、当時の世界を目の当たりにできる、
という素晴らしさに息を呑んだのが、ほぼ数分。
55分番組のうち、当時のネガを現像した写真についてやっていたのは、たった5分ほど。

ネガから280枚もの江戸の光景が現像できて、
庶民の日常風景までほとんど余すところなく見ることができるのだ。
だったら、その280枚を、出来る範囲で、なるべくたくさん丁寧に、
見せてくれても良かったんじゃないのか……。
そのほうがよほど内容が濃く、情報量が多かったに違いないのに。

番組内で映った秋葉原や日本橋だけでなく、
一つ一つ、できるかぎり古地図などと照合して、
Aの写真は、現在ならこの辺。Bの写真は浮世絵だと、この辺等々、
詳細な解説を添えてくれるのかと期待していたのだが、違った。

結局のところ写真は番組のキャッチに過ぎず、
内容は、江戸の都市工学を讃え、日本人の地道な功績をたたえ、
有っても無くても良さそうな小芝居が、いちいち繰り広げられて、
(名のある俳優を、数分の映像に起用するのは贅沢だけれど)
大江戸をありがたがるばっかりなのであった。

写真をカラー化するまでは良いのだが、
CGで3D化すると途端に、
写真から感じられた埃っぽい空気感や、水の流れ、
ネガに焼きつけられた当時の生の一瞬が、見るも無惨に立ち消える。

当時のオーストリア人が既にこれほどの江戸の記録を撮って、本国に持ち帰っていて、
かたや日本が自分自身の姿を、きちんと記録できていないどころか、
まともに再現もできてないし……。
外国のほうが、日本の記録を正確に今も残している……という部分が確実にある。
そんな背景が透けて見えるにもかかわらず、
日本の観光PR番組を見せられている矛盾に、モヤモヤしっぱなしだった。

ところで最近、NHKの玉川上水推しが、如実ではありませんか(別に良いけどね)。
ブラタモリ「吉祥寺」を見たときも、内容はみっちり玉川上水についてであった。
江戸の都市計画は、水事情の都市計画とほぼ同意、
となれば玉川上水にスポットが当たるのは、無理もないのかな……。

現在の玉川上水は、周辺の植生や、生物をはぐくむ水場を提供する環境づくりのため、
かつまた遺跡の再現として、水が流れ、魚が棲むようになりましたが、
東京の都市を支える水ネットワークとしてのお役目は、とうの昔に終えている。
私が幼少の頃、少なくとも、小金井公園周辺の玉川上水の水は枯れていた。

きったならしい暗渠(あんきょ)に雑草がぼうぼう、枯れすすきがおびただしく、
雨のあとには、底に泥水にたまるから、
年長者が煮干しをつけて紐を長ーくたらし、アメリカザリガニを得意気に釣ってみせる。
それを興味津々かつ戦々恐々としながら眺めたことがある場所だった。
なんでアメリカザリガニが居たのかは知らないが、
ちょっとしたごみの不法投棄とか日常茶飯事の場所だったんじゃないか。

それが小金井公園で伊達家の門の写生会をしたくらいの小学生の頃だ(前のブログ参照)、
環境保全のため、清流復活と相成った。
在りし日を忍ばせる、キレイな水が流されるようになった。

だから、さも江戸時代から現代まで絶えることなく、
玉川上水が都市の水ネットワークを支えつづけて、
清らかに流れつづけてきたかのような印象をともなって語られると、
おやおや……? と思います。

やらない理由を探し中 [や行]

『ブラッドボーン』というゴシック世界ぎゅんぎゅんのゲームをやりたくて逡巡している。
たいていはゲームのムービーを視聴して世界観を確認し、
ま、自分でやらなくていっか、
と流してきていたんだが、これはプレイしたい。

ゴシック世界のゲームはたいてい悪魔色やゾンビ色が強いけれど、
ブラッドボーンはどっちかっていうと吸血鬼系が濃厚な予感もするし……
(特殊な輸血液を補給しながら戦うとか)。
廃墟っぷりが美しく病んでるし、
おまけに口コミでは好評。やらない理由が今一つ見あたらない。



しかしこれまで私はゲーム機を所有してゲームをプレイしたことがないので、
かなり清水(きよみず)の舞台から飛び降りる意気込みが必要なんである。
なにしろ友人が、かえすがえすも「ゲームは時間とお金を吸い取る悪魔の箱」
安易に手を出してはいけないと、
自らの体験に基づいて、親身に忠告してくれるので、
掟のように肝に銘じてきていたのだ!

ゲームは最近で言えば刀剣乱舞沼に若干片足を突っ込んでいるけれど、
あれは軽微なブラウザゲーだし、
あとかつてのルームメイトの家のWiiでもって、マリオで遊んだくらい。
スーパーマリオはけっこう難しく、心折れかけた。
ゲームとはこれまでも意識的にかなり距離を置いていて、
のこる記憶はファミコン時代にまでさかのぼり、
すっごい子供の頃、親せきの家で「ギャラガー」というシューティングゲームをやった覚えが……。

ブラッドボーンはPlay Station 4のゲームなので、まずプレステ4を買わないと。
ブラッドボーンのゲームのソフト自体は数千円なので、
よっしゃやろう!
と前向きになっていたところ、
プレステ4が想像していたより高額なんで、えっ……
怯んでいる。

こんなの時間もお金も余ってる貴族の遊びじゃありませんか。
わたしは、しがない吟遊詩人みたいなもんなんだから、そんな……
でも吟遊詩人も折々のサロンの遊びをたしなむ必要が……。

かなり迷っています(……前向きに検討中ともいえよう)。

問題は時間をどう工面するかで、
刀狩りに費やしている時間を半分でもブラッドボーンにまわせば……。

刀剣乱舞もこういう重厚な装いで再構築してくれないかと願っているんだが、
スマフォ展開するなど、さらなる軽装化をはかるらしく、方向性が真逆であることよ。



共通テーマ:ゲーム

余談 [や行]

信条や思想が自分に近い登場人物で、
物語における肝を語るキーパーソンの場合、
(……性格や外見ではなく、あくまでも信条や思想が自分と通ずる部分がある場合)
長台詞を語っているうちに、作者の地が滲み出てしまうと小説として興ざめなので、
思えばわりと意識的に、声のトーンや、容姿などをきっちりイメージ作りして挑んでいるかも。

みがかヌかがみ』の場合、
瀬〆の叔父様:cv諏訪部順一(敬称略)

青天目氏と瀬〆の叔父様は声がそっくりなので、
必然的に青天目氏も、cv諏訪部順一(敬称略)で脳内再生しながら書いていました。

担当編集者の一人に、「cv諏訪部さんのつもりでした」と明かしたら、
ああ~良いですね♪
という反応でした。

声優方面にそんなに詳しいわけではないものの、
諏訪部さんに限らず声優さんはいろんなタイプの声を演じ分けますよね。
ならば諏訪部順一(敬称略)といったってどれ系の声の諏訪部さんか。
Youtubeを漁って、一番イメージに近い声質だなというのは、こちら。


https://youtu.be/wiP4_UwBvAM
悪魔のリドル 8話冒頭 

無論、小説本という形態で物語世界を表した以上、
登場人物の声をどうイメージするか等、それこそ読者の感性にゆだねられている。
これが正解とか不正解とかではない。
ただ作り手としては、こういう声音をイメージしつつ、口調を紡ぎだしておりました。

あと、獄卒・石渡連水はcv遊佐浩二(敬称略)。
京言葉風で、一から十まで胡散臭そう、イメージカラーが白、得体のしれぬ曲者といったら、
cv遊佐さんの声以外に、しっくりくる声色を思いつくだろうか。
いや思いつかない。

なお夢浄土の全編にわたり重宝される太刀・石渡連水のほうは、
さまざま刀剣の展示場を徘徊していた私が、
……これ! これがまさしく脳内刀剣・石渡連水だ!
と思う太刀に出会い、すでに小説は書き上げていたけれど、
執拗に写真に撮った携帯画像が出てきたので、画質が今一つですが一部を以下にアップ。
(クリックすると拡大します。)

2015070914250001.JPG
2015070914250000.JPG
2015070914490000.JPG
2015070914250002.JPG
2015070914480002.JPG

この太刀には赤字で文字が刻まれているが、
これで文字がなければ、まさに石渡連水!
(比べる対象がないので写真だとサイズがわかりにくいですが)
大きさとか色味とか反りとか刀身の姿、太からず細からず身幅尋常な存在感、
もろもろが、図太い品格と、清潔感が共存していて、
切ッ先とかまで、まさにイメージが具現化されて目の前に存在したようだったです。

人によっては、日本刀なんてどれも同じに見えるかもしれないが、
ほら例えば、こちらの刀剣と比べてみたりすると、相当、様相が異なるでしょ。

2015070914160000.JPG

てやっ!!!

刃の向きと殺傷力 [や行]

米国留学時代に、格闘技とか護身術などに詳しい知人が居ました。
詳しいだけでなく、自分自身も格闘技をやっている人が、
男女問わず、日本人でちらほらと居ました。

見るからに格闘技やってますね、という見てくれの人もいれば、
か弱い女子に見えて、有段者である人とかも。
折あらば、いろんな逸話を披露してくれるのだった。

けっこう前の話なんでうろ覚えですが、北海道出身のとあるその人は、

「地元の公衆トイレで、女の人が不審者に襲われて殺されちゃったんだけど、
その数分前に自分も同じトイレ、同じ個室を使っていたの。
もし数分前にわたしが襲われていたなら、ぜったい撃退できた。一人救えたのに」

本物だな……すごい自信! と感銘を受けた記憶があります。

かれらは護身術のコツとかを、折あらば会話の端々で教えてくれ、
また口コミでも、友人伝いに耳に入ってくるのでした。
そんな彼らが口を揃えて言う、一番怖いというのが――。

「時代劇で、父上の仇!とか言って、たすきをかけた娘さんが、
小柄(こづか)を両手で握りしめて、銅回り――帯の脇に据えた状態で、
タッタッタッタと全身で、ぶつかるように突進してくる、あれが一番、殺傷力が高い。こわい……」

剣をブンブン振り回す殺陣は、喧嘩の仕方としては上等かもしれないが、
回避する術がなくはない。
大抵の武器には、対抗できる護身術、対処法がある。

いっぽうで、上記の方法だと一番、避けにくい、躱(かわ)しにくい。
振りはらおうとか、奪い取ろうとか絶対に試そうとせず、
身近にあるもの投げつけ盾にして、一目散に逃げるが賢明。

かつて『踊る大捜査線』の映画でも、
青島刑事が、副総監・誘拐事件の犯人を確保する際、
踏みこんだ容疑者宅で、その母親に刺されて重傷を負います。
いきなりドン、と背後に女がぶつかってきて、
青島刑事が振り向いた次のシーンで、包丁でぶっすり刺されているって分かる。

……これだよ、これが怖いやつだよ……リアリティだ……

いつしかそんなふうに映画を見るようになってました。

で、刃の向き。
出刃包丁を普通に持って殺すのと、
刃を上にして殺すのとでは、殺傷力が違う、と。
力の入り具合が違うのか。
本気度も違いますよね。

ざっくりとした話ですが、
刃の向きが上向きだと《明確な殺意あり》。
刃の向きが下向きの、通常の使い方だと、
《無我夢中の正当防衛》という主張が通りやすい、
……そう一般に言われています。

で、映画とかアニメとかでも、わたしはその辺にわりと注意を払って、つい見ます。

海外の中世時代の剣は諸刃(もろは)で両刃だったりもするけど、
海外だって、ふつうのナイフは片刃だ。

気合の入っているアニメなどで、
手習い程度で刀を振るっていた登場人物が、
真剣になったとたん、俄然、刃のほうを上にし、斬りこみだしますよね。
この登場人物……本気だ……制作サイドも本気だ……と、
見ているほうもビリビリと来るわけです。

こないだまでやってたFate/Stay night(UBW)の、
セイバーとアサシンの戦いなど、顕著でした。


Saber vs Assassin 2014
http://youtu.be/v0R_CdqHtM8
(セイバーとアサシンの剣闘シーンを抜粋してまとめてあるyoutube。)

本気モードが上がると、打ち合い中の刃の角度がどんどん上向きに。
アサシンの刀は長すぎだと思うし、その切れ味で鍔(つば)がないと、自分の指まで落とさないか。
……という点はさておき。だってこの人たち英霊だし。

鑑賞のみならず、自らが小説を書くときも、刃の向きの殺傷力は、意識しつつ書いています。
刃の向きに関して、なんら関心のない人にとっては、どーでもいい描写かもしれなくも、
そこには必要な意味、こめたい状況描写が。
伝わる人には伝わってほしい、そういう心理を投影して書いていたりする。

いま『カンパニュラの銀翼』の英訳チェック中なのですが、
シグモンドが袖の内側に仕込んでいた、銀のナイフを使うシーンで。
《シグモンドは左手でベネディックの肩を強く摑み、抱き寄せると右腕を背中にまわした。
右手の短剣を裏返して刃を上にし、自分向きに逆さに手首を返すと、~(以下略)~》

小さな武器で(おまけに膝を突いた体勢なのだ)、
必要最低限の力でも、すみやかに最大限の殺傷力を及ぼせるだけの努力と工夫として、
ナイフを裏返し、わざわざ刃を上にする。
動揺しつつも、そのひと手間を取るだけの冷静さを保ってもいる。
短い文だけれど、シグモンドの本気度がひっそり表われる行為なのですが、
英訳では、シグモンドが刃を上に向けるフレーズが、なんとそっくりカット。

Sigmund gripped the baron's shoulder firmly with his left hand, and threw his right arm around his back as if to embrace him. Turning his right wrist so that the blade faced back towards him,~(以下略)

無いぞ……刃を上にする一文が見あたらない。

前文の原文で、銀のナイフと書いているものの、
この文章では、短剣としているため、両刃のダガー(dagger)の類だと思われたか。
それで刃の向きを変える描写が、辻褄があわないと、削除されたか……?
そう想像しかけたものの前文できちんとknife(ナイフ)と訳されている時点で、片刃。
当該文章の短剣=bladeとなっている。
bladeって必ずしも両刃なのかなあ、両刃だとしたらそこから指摘せねばならないわけだが……。
(ここでは短剣というよりも、むしろ刀身という意味で使われていると思うのよ。)

そもそもhim his が一文に多い文章で、
ひとつの文に、
his left hand、
his right arm、
his back、
him
と、つぎつぎ出てくるが、これちゃんと通じるのかしら?

his left hand→シグモンドの左手
his right arm→シグモンドの右腕
his back→ベネディクトの背中
him→ベネディクト
という意味で、
合間にSigmundともBenedictとも書かれてないのに、
himやhisの代名詞が誰を指すかが、同文のうちでスイッチしている。

himがベネディクトを指した、つづく次の文頭、Turning his right wrist→
シグモンドの右手首……。
これ初読の読者にすんなりと区別がつくのか。混乱を来さないか?

どう赤ペンを入れたらいいか、思案中。

友人申請してないです [や行]

大学時代ルームメイトだった友人Aから連絡が来て、
「フェイスブックでnakazato yukaから友達リクエストきたんだけど、ゆかじゃないよね?」

わたしじゃないです!
誰それ、同姓同名?

「なんか最近そういうの多いみたい」

なに!?
友達の友達です的な似非つながりを利用したり、
さも同一人物・別アカウントみたいな顔をしたフィッシング詐欺の入口的な?
騙(かた)り……?

「目的わかんないけど気持ち悪いねー」

やだねー

……というかんじで私はフェイスブックの友人申請とやら、してないですし、
そのnakazato yukaは私じゃないです。


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予想の斜め上 [や行]

輪るピングドラム#23。

たぶん次回が最終回だと思うんだが、予想がつかない。
毎度、少しずつ予想の斜め上をいく展開。

基本的には、ようく考えてみると、
最初からほぼ同じ事を繰り返しているだけのストーリーなのにもかかわらずだ。

つまり、
→ひまりが死ぬ、あるいは死にかける
→冠葉と晶馬の双子の兄弟が奔走しまくり、なんとか妹のひまりを蘇らせるあるいは助ける
→代償にひどい重荷や責務を負い、犠牲を払う
→ひとときの『平凡な幸せ』ごっこ。その水面下で……

この繰り返し。

本当は双子じゃなかったり、妹じゃなかったり、偽装家族だったり、
あの人がテロの被害者だったりこの人が加害者の身内だったり、
イケメンの医者が幽霊だったり首謀者だったり、
もうなんかいろいろ暴かれつつも、基本はこの繰り返し。
この繰り返しの合間に、おのおのの秘密や素性や動機や本音が明らかにされていく。
至って単純な展開。

その流れの中で、各自の負荷やひずみが徐々に大きくなってきて、
もはや主要登場人物たちは、殆んど救いの手が付けられない状況にまで陥っているわけだが。
場面の見せ方と、演出のおかげで、もうどうなるのか、
最終回まできて、さっぱりわからないや。楽しみだ。
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やったぁ~と [や行]

「ラルク本格再始動」
という元日ニュースに、おおいに舞い上がるも、

「年末のNHK紅白歌合戦出場の、ラルク・アン・シエルは……」
とかいう文字に、

"え?"

固まる。紅白出てたの!?

ラルクが紅白なんてノーマークだった、もうばか私。
紅白はスルーしてた(……前半に出てたんですねー)。
学生時代、アメリカに住んでたとき、紅白だけは向こうの日本語チャンネルで見られて、
確かにラルクが「HONEY」をやってたんだ。

だからラルクと紅白って、決してありえない組み合わせじゃなかったのに、うかつ!
日本に住んでいながらにして逃すなど、ほんと自分を許せないくらいだわ。
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床下の住人 [や行]

ベッドで『秘密の花園』の本を賢そうに開いてたり、
「きみはぼくの心臓だ」
そんなどこかで聞いたことがあるような甘い台詞が飛びだしたり、かかる、あま甘ハートフル胸キュン夏映画を見てきたあとには、こういうのが見たくなる。
人間の性分ってものです。

小さい人たちの、ほんわかな借りぐらしを見てきたあとだと、同じファンタジーでも、この映画の過酷な暗さはよけい胸にこたえる。

「パンズラビリンス・人喰いの食卓」

https://youtu.be/ioe5bgRq30Q?si=wcviztKlBC4unF5f
Pan's Labyrinth | Ofelia Meets The Pale Man | Warner Bros. Entertainment

この子だってパジャマにガウン、同じように寝間着で、なにがしに遭遇する場面であっても、床下の住人の質が、違いすぎるよ。

この化けものはスペイン土着か、創作なのか、類まれな気持ちわるさ。
「人喰い」の爪は、血が乾いて黒ずんでいる。

食卓の食べ物に手をつけてはいけないと、きつく禁じられていたのに。

「その葡萄二つぶが、とびっきり美味かったことを望むよ」
「なんて愚かな、お馬鹿な子なんだ!」

という評価の高いコメントに納得せざるをえない。

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追記(2023年11月):久しぶりにこのページを見に来たら、リンクが切れていたので、張り替えました。ワーナーブラザーズの公式動画です。

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共通テーマ:映画

夢みる惑星 [や行]

SF&ファンタジーの理知的な漫画を得意としている、佐藤史生先生の訃報を知りました。
ポスト24年組、萩尾先生の影響を受けているのは作品を読むとひしひしと感じる反面、
これが数段クールで頽廃的で図太さがあって(しかし絵はおもに硬質で線が細いかんじ)
異質でものすごく卓越した話を描いている、
というのを、私は四年ほど前に初めて知ったのです。

友人が「友香さん絶対好きだとおもうから」と有無を言わさず貸してくれ、
えーそうかなーと半信半疑で読み出したら、好きとかいうレベルじゃなくなんだかすごかった。
読ましてもらった漫画で、いまでも手に入るものは、即決落札したおぼえが。

最初に読んだのはハヤカワ文庫から出ている「天界の城」という短編集で、
これはいまでも普通に購入できる。
しょっぱなの「阿呆船」からすごいんだが、全ての短編において、すさまじい世界観が展開。
設定がまずものすごく凝っているんだが、それを、すごいだろ! ……と、ひけらかさないで、
淡々と展開しながら、
個性的な登場人物が、怜悧かつ情熱的に動く。
理知と情動の二刀流なのが、ナイーヴすぎない、大人に開き直ってる感じがあって、
なんか他に追随を許さないのだ。

短編の中で私は「やどり木」が一番好きで、長編では「夢みる惑星」が一番好き。
日本SF新人賞の受賞の言葉をSFJapanに掲載することになったとき、
私は、影響を受けた……あるいは私の器では影響なんか受けられないくらい大きな作品
夢中になった、今も好きな作品を、勝手に列挙している(SFかゴシック系にかぎり)。
たとえば(以下敬称略)萩尾望都のポーの一族や、
ナウシカやラピュタなど宮崎アニメ、
銀河鉄道999やら、
エミリー・ブロンテの嵐が丘、
太宰治で短編ならフォスフォレッセンス、
シオドア・スタージョンの夢見る宝石、
映画は、ガタカとサンシャイン、
銀河鉄道の夜も挙げたんだっけ……な中に、
もちろん佐藤史生の「夢みる惑星」と「やどり木」も。

佐藤史生は、いわゆるHigh concept Sci Fiの世界と、
土着で神話でファンタジーな感じを融合させていて、
言ってみればかなりSF真っ向勝負な作品を、独特な精緻な筆でつむいで代表作に残している。
にもかかわらず、気づけば日本SFクラブにも組み込まれていない。
こういう先生の意図が反映されなかったなんて残念すぎる。

「夢みる惑星」は、神話の裏側を捏造していくような感覚*が、うきうきする。
おまけに登場人物のずるがしこさが、良い感じに発揮されるところが、私にはツボだった。
最初主人公のイリスは「みるもたよりない風情のお子」で、銀の瞳に銀の髪、
女の子みたいに綺麗で弱々しくナイーヴ、
馬鹿真面目で、ひとの言うことをいちいち真に受けて、おい寝こむのかよ。
あ、こういう路線の主人公ね、と思って読んでいく。
……と、次の章で若者になったイリスは「妙なぐあいに腹のすわった青年になりました」

神殿での修行のあいだ、遺跡から出た経典をまじめに写経していたイリスは、
神殿をぬけだしてとある画策をしている。
斎王イリスが居なくなっちゃったんで、
神殿側は内密に捜索の手をまわしている。と、周旋屋に、写本を売りつけられる。
それが「長老じこみの見事なゴアキール署名体」で、
イリスの写経なんだよな。
イリス、修行の成果物である写経を、周旋屋にふっかけ路銀づくりの元手にしていたわけよ。
神殿でまじめくさって熱心に写経してたのは、もとよりちゃっかり偽造して売っぱらう目論見。
あとで長老に見つかって、ぐちを言われても、やはり300タウスで売ったのは高すぎたか? とか、
のほほんと抜かすありさま、最早まったく悪びれない。
ま、周旋屋がそれを1万タウスで売りつけられるだけの、いい仕事をしているので、
損させてないんだけど。

イリスは幻視者として神殿に担ぎあげられていても、
実際自分に幻視能力がほとんどないことを過剰なくらい自覚していて、
(幻視のインプットは相手によってできるが、アウトプットができないんだよな。)
そのぶん舌先三寸、超化学を駆使して、そこらの幻視者以上のカリスマ性で民衆を動かそうとする。
神殿の長老たちにむかって、
お前らが私を使い物になる大神官として担ぎあげるなら、やってやる、
かわりに邪魔となる本物の幻視者を残らず殺せ、
などと平然と命ずるのだ。いつもは虫も殺さない性格しているくせによ。

(あ、そういうところ、なんかコードギアスのルルーシュにも似てるなあ。
たった一つのギアスを頼りに、あとは頭脳による演出作戦、
たとえ自らはエセな偶像であっても、少ない味方と、手を組むべき手ごわい相手とで、
どれだけ民衆を救済できるか、みたいな。だからどっちも私のツボなのかー。)

佐藤史生先生の、知る人ぞ知る、だけどなぜか広くは知られていない名作を、
どうかこれを機に、一人でも多くの人に読んで欲しい。
遅すぎるなんて事はない。
損はしないから。

*


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