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フラタニティ [は行]

友香さんカメラ小僧みたい~

えーーっ!

友人作・球体関節人形が展示されるというので、そそくさと出向き、ほんとうは撮影だめっぽいんだけど、どこにも勝手に公開しないから! と約束。「わたしの作ったのだけならいいよー」という優しい言葉に甘えてきた。

だったらデジカメ持ってくればよかったようとか言いながら、携帯のカメラを縦に横にしたり、かがんだり。覗きあげたり、見下ろしたり。完成度の高い清楚な上品さとか、可愛らしさとか、スカートのヘムラインの縫製の隙の無さとかに、テンションあがって斜めアングル、横顔横顔、やばいこの角度超キレイ、きゃあ美人。とか言いながら撮ってたら、だ(笑)

さて。
私は少し前の鳩山首相の国連演説(?)を聞いてはいないのだけれど、「友愛」を
「Yu-ai, Fraternity」
と述べたらしいと。

フラタニティ!?

ま・じですかー。と、私は一人悶々と勝手にあわてる。
たしかに友愛はフラタニティとも訳せるが、もっとシンプルなCompassionとか、あるいはuniversal benevolenceとかでいいじゃないか。それだと博愛主義的になるから、ちがうんだ友愛なんだ、っていうこだわりがあったのかもしれないが……。

フラタニティってのはあれですよ、私流に説明すると、大学および大学院における「桜蘭高校ホスト部」のホスト部みたいな感じを言います。ホスト部は高校だし、やってることが「キラキラしいおもてなし」だからいいんだけど、ようは名門名士成績優秀美貌の有力者のご子息ばっかりが集って、なにやら自分らで楽しく学校内で画策めいたことをしているような、していないような。ああいう感じの、麗しいんだか、いかがわしいんだか……な面々を言います。入りたいと希望して入るというより、主にスカウトで入るというのもそうだな。

あるいは「コードギアス」のアッシュフォード学園の生徒会とかも、フラタニティの色合いが濃いです。

もっと言うと、これ私は前半しか見てないので、ひょっとしたら後半存在の色合いが異なってくるのかわからないんだけど、「少女革命ウテナ」での生徒会(ウテナが生徒会メンバーと薔薇の花嫁をめぐって決闘してたころの生徒会)あれまさにフラタニティ的。

漫画とかアニメとかで結構みられる「貴族的生徒会」≒フラタニティ。
こうも貴族的生徒会設定が、欧米風で違和感なく、しっくりいくのも、たぶん「フラタニティ」の転用だからじゃなかろうか。

実際の高校の生徒会が、そんな学内における秘密めいた権力を握っていたり、きらびやかなモラトリアム、特権階級にあったりしない、ってことは、日本に暮らす私たちは当然、実体験として理解しているわけだけれど。これが米国だと実際に、漫画やアニメのファンタジー生徒会としてではなく、リアルにフラタニティとして存在しているのです。……というのはいささか言い過ぎにしても、その名残がいまだ色濃く、確実に残っています。

私の卒業した米大学はキリスト教福音系私立大で、そのせいなのかなんなのか、フラタニティという言葉ではなかったけど、やっぱりそれっぽいのがあった……。週3必須のチャペル、みんな大講堂か、音楽のホールか、その手の広いところで催されて参加するのに、そのメンバーだけは、プレジデントルームで少人数のチャペルに出る。とかなんかそういう感じの区別があったりしたような、しないような。留学生の私が知りうるのはその程度だったけれども。(州立だと無いのかもしれない。ちょっと通った州立の大学院では、そういうのがあるのかないのかすら、私は知らなかった。)

フラタニティをさかのぼると、フリーメーソンとか、スカル・アンド・ボーンズ*とか、つまりは映画「From Hell」だったり「グッド・シェパード」だったりと、前身確実に秘密結社めいてきます。

だから少なくとも、実際はどうであれ、英語圏にいる人がフラタニティと耳にしたら、なにやら陰謀めいた閉鎖的、ちょっと貴族的ですらある仲良し集団を、即座に連想するはずです。

それともあれかな、私の発想がゴスがかかって偏っているために、フラタニティ(友愛)という語を聞くと、即座にエリート秘密クラブなイメージを抱いてしまうのか? と思ったけど、日本語のウィキペディアで、私が思うのとさして変わらないフラタニティ*の説明がすぐ出てきたので、まあ誰しもフラタニティときいてそういうニュアンスを感じとるのは間違いなかろう。

国連ってのは、英語を第一言語とする文化圏の人間ばっかりが集まってるわけじゃない。
フラタニティと聞こえれば、先入観なしに、すんなり「友愛」と理解する人間のほうが大半だ!

という反論もなりたつかもしれないが、だいたい国連とかの英語のスピーチを聞いているような人ってのは、概して英語圏文化になじみがある……その言語を習得するってのは、すなわちその言語圏の文化を習得することに直結する面も否めないので、やっぱりフラタニティとくれば、閉鎖的エリート仲良し集団と、イメージ先行しちゃうはずです。

たとえばじゃあ、日本人がいま「翼賛政治を推し進める」とかいうフレーズを聴いたとして。
翼賛ってのは、もともとは「力を添えて助ける、補佐する」という意味合い、「翼」という字も「賛」という字も、どっちも肯定的で美しい字です。
でも、いまやどうしたって、戦時中の「大政翼賛会」とか、「翼賛選挙」とか、軍部支配下におかれたファシストがかった政治のイメージが先行する。そういうイメージと無関係であるならば、率先して、翼賛、翼賛って使いたい語じゃないはずです。

そういう用語と大差ないよな、フラタニティー。
「友愛」かもしれないけど、すんなり「友愛」とは思い難い。

鳩山首相およびそのスピーチを考えた面々も、当然それは承知のうえで、友愛をフラタニティと訳したのは苦肉の策であったのだとは思います。ぴったりしっくりくる言葉がほかにないから、わざわざ「Yu-ai, Fraternity」と日本語を前述して言い換えているのでしょう。

私は演説の内容を聴いてないけど、フラタニティと言ったからって、世界中が「日本は、閉鎖的ブルジョワエリート仲良し差別クラブ政策を推し進めたい」と言ってるわけじゃないってことは、全文を通じてみれば、むろん察しがつくはず……ですが……。
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