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採算の算出法? [さ行]

最近の東京の寒さと暗さには、ゴシック大好き・太陽は恐ろしい系のさすがの私もひく。
ドン引きである。
雨と宵闇に有難味がなさすぎる。

つい先ほど、霧雨の降りしきる中、
出かける用事があったついでに、お役所に不在者投票におもむいた。
が、想像以上に長蛇の列。
(あ~?)
ってなりました。

今迄、不在者投票というと、平日の昼間にしか行ったことがなかった。
やはり土曜の夕方は混むのか……と思いつつ、
若干、二の足を踏みつつも、列の最後尾につこうとしたところ
「ただいま投票まで、40分ほどお待ちいただいております」

帰ってきました。

明日は悪天候が見込まれるので、
今日中に済ませておこうと思ったのだが、
いいよもう大人しく明日行くよ……。

関東地方の台風直撃は月曜みたいだから、たぶん大丈夫だよ……。
投票所、けっこう遠いんだよなあ……。

つか全国的に台風直撃なのだ。
火曜日くらいまで延長してほしい、切実に……。
これ台風直撃地方でのアクセスの悪さに、不平等具合がすごいでしょう。

お役所の出口付近で、
「もうほんと日本人ってばかだよ、馬鹿まじめだよ」と、
長時間待って投票を終えたらしきおばさんが、その連れに猛烈に愚痴ってるのにすれ違いました。
いやほんとそうですよねーと相槌を打ちたかった。
寒くて暗くて、目くばせ一つできなかったが。

すごすごと帰ってきながら、
人はなんだかんだ困難な状況になっても、必ずやりたいことは達成するものだ、
という理論はわりと嘘だなあ……と。
必ずしも逆境に意欲がかきたてられるとは限らない。
時には、むしろ削がれる。おおいに削がれる。

本が平積みに置かれている作家と、
注文して取り寄せないと手に入れられない作家の本とでは、
アクセスに違いがありすぎる。
便利過ぎても有難味がないけれど、
すぐ手に入らなければ面倒になって、そのままになっちゃう場合もありうるよな……。
なにしろ無くて生きられないものじゃないのだ。
魂の暮らしぶり、その質を変えはするが。

と、ひょんなことから自分の置かれた作家としての立場に照らしあわせて、
嘆かわしく憂鬱が増すのだった。
世の中の不公平感をむやみに失くすことは不自然だが、
機会の平等は絶対必要よ……。

人気作家は売れるから本が刷られる。
しかし私みたいな作家の場合、本が刷られなければ、人に読んでもらえないんだから、
そもそも読者に届かない。
それでどうして売り上げの実績が云々だから今回は残念ながらとか言えるんだ……

みんな最初に同じ冊数だけ刷り、
みんな最初に同じ数の書店に、
同じ冊数だけ並べて、
その統計を取って優劣をつけるのでなければ、
実績データとしても不完全、不健全なのである。

(もっといえば、有名作家はそれだけ名が知れていて、
広告しなくともみんな知ってるんだから、
無名作家にスポットを当てないと、機会均等とは到底、呼べないのだが……
これはいったん置いておくとしてもだ。
無名作家の本が部数も少なく、本屋にも置かれないなら、
どうやって売り上げの実績を出せるのか教えてほしい。

伊勢志摩に住んでいる友人がいるのだが、
伊勢志摩の書店で私の本が置いてあるところは、一箇所もないと言っていた。
今までに一度たりとても見たことがないと。伊勢志摩の人が読書しないわけじゃなかろうに。)

また短期間ではなく、長期スパンにわたっても調べないと、
短期間だけのデータでは、どうしても、すぐ読みおえられる本の売り上げが伸びやすくなる。
長期的な目算を視野にいれないのは、データに不備があるといえはしまいか。

この手の世の中にある不公平感が簡単になくならないのは、
機会の平等に対する是正をすることで、
誰かが逆に損するから、
という見方が強いが、
損するというよりも、そのために労力を割くのが面倒くさいからなだけな気がする。
(それを大局的に損と呼ぶのだ。)

「不平等における得しない側」にいるマイノリティごときのために、
マジョリティの俺様が心を砕き、対策を講ずるのが馬鹿馬鹿しい、ってのが有るんだろう。
心を砕き、手を尽くしたなら、その分の見返りを求めたくなるんだろう。
(マジョリティは見返りなど求められないのに……。)

という感じで、やはりマイノリティはマイノリティぶりを自分の力で脱却できないシステム、
どうにかならないか。
生きにくい。

便利と負担の境界線 [は行]

昨年あたりから「最近、映画がつまんないんだよね」モードに突入し、
購入したまま放置している積みDVDが20本を超えて、
めっきり映画を見なくなっていた。

先日の『ダンケルク』でスイッチが切り替わったらしく、着々と消化しつつある。
良い映画もあれば、今一つなのもある。

映画を見なくなっていた理由はいくつかあって、
その一つには、2箇月前にデーブ・スペクターがこの記事*の中でも言及していたが、
最近、ハリウッド映画が「海外でもウケやすい大味なアクションや、コミック原作ばかり」で。
おまけにリメイクが続くので、娯楽作としては楽しめなくもないのだが、
今一つ、斬新な衝撃とか、地味にしみじみ味わえる良さのある作品に、
巡り合いにくくなってきた気がしていたからです。

日本でも、歴史ドラマなど、本能寺とか関ヶ原とか忠臣蔵とか新選組とか、
あの手この手で幾度となく作り変えては、やっていて、
アニメのリメイクも続いているし、そのクラスタのファンとしてはリメイクは嬉しいのだ。

ただ純粋に、新しいストーリーに出あってみたい!
と思っている場合、アメコミのリメイク等は、続くとさすがに大味で飽きてくる。
技術は磨かれて、目には楽しいけれども、世界観は目新しくないし、話の大筋も知っている。
作品の世界観に馴染みがあるという点は、
大衆の集客には多分、手っ取り早いプラスになるんだろう。だからやるのだ。

かつては映画館で眠っちゃうなど考えられなく、
寝不足で見に行っても、見終えた後は目がギンギンに冴えて映画館を出る感じでしたが、
昨今では、わりと寝落ちしがちです。
中盤の派手なアクションシーンで、5分程度だけスリープ……からのログアウト……。

また私には吉祥寺のバウスシアターが閉まったのが存外、大きかった。
吉祥寺の映画館は、誕生月だと男女問わず誰でも割引価格で映画が見られる(身分証提示)。
かつては誕生月など、通い詰めていました。
しかしここ数年、誕生月に映画を見にいく習慣がぱったり途絶えた。
見たい映画がやっていないんだもの。
たった一つの映画館が閉まっただけで、
こんなに自分の行動パターンに影響が出るのか……と痛感せざるをえない。

でもまあ、私が映画を見なくなっていた地味に最大な原因は、
利用していたDVD宅配レンタルシステムの所為だろうなあと、自己分析しています。
毎月、毎月、4本分の映画が送られてくるタイプに8年くらい契約していました。

見たい映画を30本くらい予約しておいて、
その中でレンタル可能なものが、毎月2回にわけて2本ずつ送られてくるシステムで、
延長料金が取られない。かわりに、DVDを返却しないと次の2本分が送られてこない。
繰り越しできる枚数は限られています。

で、そのとき自分が見たい映画が必ずしも送られてこないのだった。
自分が予約した映画ではあるんですが。

馬鹿っぽいノリの映画を気楽に見たいと思っているときに、
死ぬほど重いタイプの実話映画が届いたり、
じっくり文芸映画を楽しみたいと思っているときに、
アクション大作が届いたり……。
おしゃれな恋愛映画を見たい気分のときに、
戦場で泥水を啜る系の映画が届く。逆もまたしかりだ。

いずれも自分自身が見たいと思って予約していた作品であろうとも、
さすがにちょっと辟易(へきえき)してくる。
殺伐としたマフィア映画を見たいときに、
夢いっぱいのファンタジー大作が届いたりすると、正直、うんざりする。

名作や大作は、作品のパワーに引っ張られて、
私個人の気分など良くも悪くもお構いなし、
圧倒的な力技で感動させてくれるんですが、
そういった名作は、年にそうそう出くわせるもんではない。

そのうちに、レンタルDVDが届くのが、
子供の頃、毎月の通信教育が届いたときのあれ、
「うぇ~来ちゃったよ」という微妙なストレス、負担にしか感じられなくなって、
楽しみのはずの映画が、ひたすらこなしていく仕事と化してくるんです。

ゲームだったら日課やマンスリーの任務をこなすと、それなりに報酬をくれるし、
やらなければやらないで問題ないが、
DVDは見終えて送り返したら、また次がすぐ届くわけで、
便利なのを通りこして、DMみたいに鬱陶しくなってくるんです。
そして見ようが見まいが毎月定額、引き落とされる。
ノルマの持ち帰りをしているみたいに、もう勘弁してほしくなり……。
今では、この手のレンタルを利用するのは止めにしていますが、
おかげで、めっきり見なくなっていた。

思えば、アメリカで足しげく映画館に通って、週に3本ペースで見ていた時も、
面白い作品もあれば、つまんない作品もあった。
100本のうち、10本良ければ、上々だった。
うち3本が私好みの映画だったらラッキーだった。
それでも映画を見ること自体が気分転換で楽しかったんですよね。
英語の勉強になるという、言い訳にもできた(笑)

それが昨今では2時間のタスクと化して、
ディスクをプレーヤーに入れる作業がすでに面倒くさい、
と思うくらいになっていたのである。

そこで何本かネットレンタルを利用してPCで映画を見もしたが、
これもまたメリットとデメリットがある。
ちょうど、紙の本と、電子書籍と、どちらが扱いやすいかといった争点と、似ているかも。
実際のところは、紙の本と電子書籍の違いは、
映画館での映画鑑賞と、自宅PCでの映画鑑賞、という差が相応の比較対象だと思います。

*



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日本的美意識 [な行]

カズオ・イシグロがノーベル文学賞を獲ったことが話題ですね。
「カズオ・イシグロは日系ギリス人で、日本語はしゃべれないし、英語で話を書いている。
なのに、まるですっかり日本人扱いの日本文学扱い。日本人てば調子いいよ。
おいしいところにとっつきたがる、すぐ尻馬に乗りたがる」……的な発言もチラホラと見かけます。

たしかに、日本の研究土壌では予算や着眼点その他が認められず、
海外にいわゆる研究的亡命を果たし、アメリカで永住権あるいは市民権すらをも取得し、
海外で研究した成果が認められた、研究者の功績を「日本人研究者の功績」
として扱って憚らない、昨今の現状に関しては、
私は「恥ずべきだ」と思う。改めるべきだと。

しかし、カズオ・イシグロに関していうと、
彼の作品は、日系人作家だということを抜きにしては語れない部分が色濃く出ていると思うので、
よくある、「なんでもかんでも日本産扱いしてフィーバーしたがる」というのとは異なるのではと。

(あと彼は日系二世(?*)イギリス人。
これは単に私がアメリカに留学した時に感じた個人的な経験にとどまるが、
二世の人は、日本人のわたしが想像している以上に、
排除するにせよ取り入れるにせよ、日本や日本文化を意識していた。
場合によっては日本人以上に、日本的な価値観に縛られている人も少なくないのだった。)

といっても、私はカズオ・イシグロのファンでも何でもないし、
それどころか、映画化している作品しか知りません。
だから何言ってんだお前、と思われても仕方ありませんが。

ただ、カズオ・イシグロがブッカー賞を受賞した『日の名残り』
この映画化された『日の名残り』――アンソニー・ホプキンス、エマ・トンプソン主演
この映画が、わたしは異常なほど大好きでして。

キャスティングも良い。主演二人のほかにも、
クリストファー・リーヴ、彼は落馬事故で首下が不随になり、
車椅子生活を余儀なくされた挙句に、数年前に亡くなりましたが、
まだ事故前の、まったく壮健な状態で出演している。
よくも悪くもアメリカ人らしい言動をかます役どころが印象的です。

ヒュー・グラントも、今みたいに女ったらしのキャラが定番になる前で、
まだ映画『モーリス』のクライヴ役の余韻を引きずっている、
名家出の品の良い、ちょっと影がある若者で出てきます。

とにかく私はこの映画が大好きで、
アメリカ留学中にビデオを見つけたときに即買いしました。当時は高かった。
ビデオというところがポイントで、まだDVDなんて無かったんだ!
ビデオだから一回見るごとに擦り切れて、劣化してくわけです。
見るときには、こと好きな作品のビデオのときには、
気合いを入れて巻き戻しとかなるべくしないで、一気に脳裏に焼きつけるように見るんですよ。
そうやって幾度となく見てきた。

(似たような舞台設定であるテレビシリーズ『ダウントン・アビー』を何シリーズも見るのであれば
正直、『日の名残り』の映画を百回、繰り返し見たい派なのである。)

『日の名残り』の映画に日本人は一人も出てこない。
日本の話題も全く出てこない。日系人も居ないどころか、アジア人も出てこない。
ユダヤ人とドイツ人とアメリカ人とフランス人は、ちらっと出てきますが、
がっつり英国人の英国映画。
それでも猛烈に日本ぽい侘び寂びが、いたるところに滲み出てるんです。
無視できないほどに。

それが英国のお屋敷の作品世界に、絶妙にマッチしている加減がたまらないし、
作品世界にそこはかとない影を落としていて、それが妙に腑に落ちる、深い味わいと化している。

カズオ・イシグロは映画化に恵まれている作家だと思います。
映画がいわゆる「原作レイプ」に陥っておらず、
作品へのリスペクトがちゃんとなされていて、文学の端正な三次元化に仕上がっている。
まれにみる成功例といえるケースな気がしています。
タイトルもすべて、映画が小説タイトルのままですしね。

映画『わたしを離さないで』の原作小説『わたしを離さないで』は、
「エモ系ディストピア小説で、淡々とひたすら嫌な感じの展開が続く」
といった一部批評を先に目にしていたので、
そのいっぽうで過剰なまでな絶賛組も多く、遠巻きにしたまま、
正直、いまひとつ気乗りしないで映画を見に行った。が、
好き嫌いはともかくとして、これもとても良く仕上がっている映画でした。

この作品にも日本人は一人もいないし、そもそもイギリスなのかどうかもわからないような世界観。
ディストピアな世界線で描かれるSF(?)なんですが、
施設内の雰囲気はイギリスっぽい風景1930~1950年くらいの設定に映る。
でも一歩、施設の外に出ると1990年の世界が広がっているんですけど。

主人公の「苦難」を受け入れようとする姿勢と言動に、共感できるところは少なかったが、
(私ならば何としても逃げ出す、抜け出す努力をするので)
これもまた、カズオ・イシグロが書きそうな世界であることよ、という……。
「耐え忍ぶ、我慢は美徳。それが他人(ひと)の為になるならば」
という観念が、美しい哀れみを誘うという展開なんですよ。

「自己主張は悪」
「自分の感情があるのも本当」
このジレンマの存在を認識しつつも呑みこんで、流されていく感じです。
日本文化に根強く宿る「美意識」じゃありませんか? 
(私個人はその精神を美意識とは呼びませんが。)

これらはしかし、私が勝手に「日本的な精神性が強いなあ」と感じとっているだけだし、
作中のそこはかとないペシミズム、
清貧に宿る孤高さ……(下手すると、しみったれた感じになりうるギリギリ手前)な感じは、
カズオ・イシグロ独自の個性なんであって、日本文化は関係ない、
と言われれば、それまでか。

『上海の伯爵夫人(The White Countess)』という映画がある。
カズオ・イシグロのオリジナル脚本。
監督は、『日の名残り』のときのジェイムス・アイヴォリー。
この作品、私、好きなんですが、
これは珍しく日本人ががっつり出てくる。
日本人役は真田広之です。

この真田広之が、かっこいいのだ。英語もとても自然。
英語で台詞を言わされているという感じがまったくなくて、
ふつうに役になり切って、その役どころが英語で会話をしている。

カズオ・イシグロのオリジナル脚本なので、
監督やプロデューサーに「こういう作品書いてね」と言われるがままに
脚本を仕上げる、ライター稼業の脚本とは、わけが違います。
映画化ありきで、カズオ・イシグロがお話を作ったのだ。

主役は、『イングリッシュ・ペイシェント』のレイフ・ファインスと、
ナターシャ・リチャードソン(リーアム・ニーソンの妻で、近年スキー事故で亡くなった)。

ナターシャ・リチャードソンの実母はヴァネッサ・レッドグレイヴで名女優ですが、
このヴァネッサ・レッドグレイヴが、作中では義伯母役をしてます。お姑側の伯母さま役です。

白系ロシア人の亡命貴族が上海に落ち延びて、租界で貧しい暮らしをしている。
(タイトルのThe White CountessのWhiteはこの白系から来ている。)
いっぽう、事故で妻と小さい娘を失い、自らも盲目となったアメリカ人の元外交官役、
レイフ・ファインス。
二人が出会います。

おりしも日中戦争がくすぶりそうな不穏な時代で、
日本人であるマツダ(真田広之)は戦争勃発までの根回しに暗躍している、謎めいたキャラクター。

真田広之の役は敵役であり(べつに愛情関係はからまない。政治的に敵役)、
いってみれば悪役なんですが、
そのカッコいいこと! 悪いのにですよ。
とにかく知的で有能だし、気品があるし、礼儀正しいし、
それがわざとらしい、あからさま感じではなくて、日本人だから滲み出てくる知性、
という描かれ方です。
日本人独自の気骨を持って、スマートに行動する。

欧米映画の作中で、日本人が日本人役で、わざとらしくなく、こうもカッコよく描かれている作品、
私はほかに出会ったことがありません。
(無害な空気みたいな役とか、ユーモラスなあるいは滑稽、もしくは粗野なのとかばっかり。
『ラストサムライ』は信念があって良かったですけど、あれは侍がテーマだし、
ちょくちょく不自然さは有りました。)

これは日本人作家であったなら、
日中戦争の準備のために暗躍するマツダ役を、ここまで格好よく描くことに躊躇しただろう。
又、日本にゆかりのない作家が書いた場合、ほぼ間違いなくこのマツダ役は、
下品かつ横暴に描かれたのではなかったか。
日系人カズオ・イシグロは恥ずかしげもなく、マツダをここまで格好良く、上質に描く。

ほかにも歴史的な視点と扱い方が、
カズオ・イシグロが日本と全く無縁の作家だったら、こうは書かなかっただろう、
というのを色濃くうかがわせるのだ。

とはいえ、これはあくまでも私の感じかたに過ぎません。
未見のかたは、とても良い作品ですし、
これを機会に、映画『上海の伯爵夫人』おすすめです。
日本ではメロドラマやラブストーリー扱いになってますが、
そういうレベルの映画じゃないです。
カトリーヌ・ドヌーヴの『インドシナ』を髣髴(ほうふつ)とさせる大河ドラマ。
亡国の民の描きかた、
〇系人という、二つの祖国を持っている者特有の悲哀とか強さとかが際立ってます。

後半、どの船に乗ったら逃げられるか、という場面に至っては、
なにしろ主人公の目が見えないので、並大抵の切羽詰まった感じゃない。
どの役者も鬼気迫る演技力。
かといい無様に錯乱したりしないから、見ごたえがあります。

*



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『ダンケルク』の映画体験 [た行]

映画『ダンケルク』見てきたんだが、公開中の映画については無料放送などではないし、
一斉放送ともちがって時差もあるので、
古い映画以外は、映画の内容についてブログに書かないようにしている(今回も書かない)。

単に私個人の映画体験の部分だけについて書いておくと、
私はこのところ映画館で全く映画を見ていなかったので、
刺激の強さが尋常ではありませんで、
軽くシェルショックレベルに疲弊した。

must-see movieであることは確かなのだが、
見るならば体調万全な時にいったほうがよろしいかと。
心底、真面目に、そう感じました。

画面が揺れて酔うとかはありません。むしろ美しい。
血とか内臓とか派手なスプラッタも皆無。
しかし音が、えげつない。音響が。

心身ともに「今日なら余裕でいける」という日に一人で行きましたが、
消耗すること甚だしかった。

だいたい映画を見ると、しかも戦争映画などの場合はとくに、
残酷だろうと苛酷だろうと、泣きはらそうと不条理に歯噛みしようと、
アドレナリンが出るらしく(当社比)
皮肉にも元気まんたんになって映画館を去るというのが、私の常なのだ。
ダンケルクはしかし、そういう私に活力をもたらしてくれる映画では全くなかった。

勇気をもらうとか、悲劇に涙するとか、
怒りに震えるとか、ショックに打ちのめされるとか。
はたまた人間の愚かしさに嘆くとか、
そういう感情に火がともるタイプの映画でなかった。

嘔気と腹痛が波状攻撃で絶え間なく打ち寄せてくるような音響(音楽とも効果音ともつかぬ低音)と、
壮大で圧倒的な絶景(戦争映画にもかかわらず、陶然となるほどの景色)との、
このダブルバインドが、どんどん感情を殺しにくるんで。

クリストファー・ノーラン監督がCGを全く使わず、生映像にこだわって撮影したらしいですが、
おかげで臨場感が異常。
初めて見る光景なのに、なんかわかるこの感じ、
というリアルな追体験を否応なくさせられます。

しょっぱなズキュンという銃声でまず私、ビクッて身を竦めましたから、文字通りに。
そんなリアクションしてるの映画館で私だけでしたが。皆なぜ平気なんだ。猛者なのか。
(ちなみに映画館は、 空いている頃合いを見計らって行ったこともあるが、十人ほどしか居なかった。)

昨日ラスベガスで銃乱射事件があったばかり、その報道を見聞きしたばかりで、
頭上から銃声が降ってくると、
胃がすくむ……常に気が抜けない。

天国と地獄の立ち位置が、戦況の風向き、自然状況の潮目の変化で、
あっという間に入れ替わることの連続で、
(精神的な)窒息と過呼吸が交互にくる息苦しさ。
苛酷でした。

以下、忘備録的な小さなネタバレ感想。



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