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演歌のこぶしは弦楽器でいうビブラート [あ行]

一か月以上、このブログを更新していなかったがために、上部に広告表示が出るようになったので、更新をば。

ちなみに「広告が出てるよ」と教えてくれた人は「かくかくしかじかの広告が出てるよ!」
と教えてくれたのだが、多分その広告はブラウザ検索や履歴などから、あなた用にカスタマイズされた広告です。そこんとこ、よろしく頼む。

ちなみに私にはAdobeフォトショップの広告が表示されていた。
ブログを更新したことでトップの広告は消えたが、今までは無かった位置にブラウザゲームの広告が出るようになっている……いつ消えんの。(追記・更新してから丸一日で、こちらの広告も消えました。)
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さて年末、この時期になると歌番組が増え、自分では主体的に聞かないたぐいの歌謡曲を耳にする機会が増えます。
たとえば演歌。

まぁ最近は紅白歌合戦でも、いわゆる「定番の演歌枠」が縮小されている気がするが。(私は紅白は録画しておいて、好みの曲や、目当てのアーティストだけチェックする派です)。

往年の演歌は耳に残る。
とくに演歌好きでなくとも知らず知らずのうちに口ずさんでいたりして、すると演歌のメロディをなんとなく口ずさんでいるつもりが、いつの間に「黒い瞳」とか「カリンカ」とか、日曜日は市場に出かけ糸と針を買ってきた「一週間」の曲など、ロシア民謡へと脳内音楽が収束されていく。
……といった経験はありませんか?
私はかなりあります。

演歌と民謡は、ともするとごっちゃにされがちだけれど、演歌の起源は実はわりと最近──ですよね。
我々が見聞きするいわゆる演歌が、歌謡曲として盛大に流行り、北国の酒場で流れていたり、遠距離トラックの運ちゃんが、いつも聞いていたりするイメージがついたのは、確実に戦後。

で、私は思ったのだ。
戦前からアメリカ音楽は日本に入っていたけれど、圧倒的に広まったのはやはり戦後直後。
占領時における、GHQの影響が強いように、だ。
演歌はロシア民謡を聞いて過ごした、シベリア抑留兵の影響が色濃いのでは?

もっといえば、つらいシベリア抑留を経た兵隊たちは、強制労働の劣悪な環境とかで、ソ連に対する猛烈な嫌悪感を抱いていると同時に、ソ連で耳にしたロシア民謡の曲調に、ある種のノスタルジーを禁じえなかったのではないか、と。

そのまま聞いたり歌ったりするのは癇に障るので、ロシア民謡風の曲調に、泥臭い日本のソウル(魂というか肝というか)をのせた歌詞で歌いあげたのでは。
イントロと間奏には、必ずと言ってよいほどパラライカと聞きまごう音色──。
それが演歌の主流になり、抑留から帰ってきた多くの元兵隊を慰めたのだ、
と。

たとえば演歌歌手の三波春夫さんはシベリア抑留の生き残り、というのは有名な話でした。
──もう第二次大戦もシベリアも誰一人、口にしない、気配もない90年代前半のちょっとした歌番組だったか、植木等が司会をやっていたのを見たことがあります。特番だったのかな……双方、既に初老で。
「今までに一番嫌だった、惨めだったことはなんですかね」と、出演歌手にそれぞれ振っていくMC内容で、すると三波春夫が、ベースはあの満面の笑みのまま、ちょっとだけ表情を曇らせ、
「それはやっぱりシベリア抑留での初日ですね。犬畜生よりも汚いこの日本兵が、と罵られ、極寒のシベリアで頭から水をぶっかけられたのが、一番屈辱的でしたねぇ」
何気なくダラダラとテレビを見ていた十代の私には衝撃で、「え」となったのを、今でも覚えています。

植木等が「いやあなたそんな話、今こんな番組でしないでよ、もっと軽いやつ」
と、わりとガチの低い声で切り返したのが、記憶に残っています。
(植木等はクレイジーキャッツのメンバーですから、在日米軍のキャンプまわりをしていた、つまりアメリカ音楽バリバリ派。)

数々の演歌はメロディラインをはじめとして、曲の文法? 世界観みたいなものが、かなりロシア民謡に通じる。概してアメリカ音楽が沖縄など南側から東京くらいまでとすると、演歌は圧倒的に北国のイメージとセットだ。私でも知っている有名な演歌──「津軽海峡冬景色」とか「北の宿から」とか、曲名でもう北国。
アメリカだってアラスカも在るわけですし、ロシアだって黒海もあるんですけど、やはり日本人の原体験として、シベリア抑留で接したロシア民謡の影響が強かったせいでは?

……等々と思い至り、ググってみましたら、興味深い記事を見つけました。
こちら↓
http://yoshim.cocolog-nifty.com/office/2009/04/post-1a56.html
「音楽のルーツを辿る旅...ロシア民謡をめぐって」
2009年4月10日のブログで、吉松隆さん(作曲家)が書いています。