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食傷気味 [さ行]

ラファエロ展、お友達に誘われて上野の国立西洋美術館まで行ってきました。
ラファエロとその周辺の絵画です。

チケットやさまざまの告知でみかける聖母子像は、噂にたがわぬ神聖な美しさ。

でもラファエロで良かったの、わりとそれだけだった。

聖母子像だけ異質な美しさを放っていて、
背景が黒に塗りつぶされていたのは、後世に誰かが当時の流行として……また劣化していた背景を消すためにも、施したものらしく。
ぐっじょぶ誰かさん!
この背景の黒が異様なほど生きている。

暗闇に浮かび上がる聖母子像……キリスト教信者でなくとも恍惚となる美しさ。

おっかあと、赤子を、ここまで神聖にけがれなく冒しがたい気品に包む筆致も、演出も、
ラファエロはいうに及ばず、キリスト教ってすげえや、です。

こんなの眼前に突きつけられたら、
母親であれば自分もこんな母親になりたいと憧れ、
かつまた母である己と、いとけない子供を誇り高くも思えるし、
夫であれば、自分の妻が母親であるときはこういう顔をしていてほしい、
やわらかそうな赤子ともども神聖で手が届かぬほどに、

そんな母性がとことんまで浄化され、天ほどの高みに極められているのです。
素敵な瞬間を切り取って、よくもここまで作りこんだな……なるほど聖母らしき気品だと。

でも母親だって、ようは女じゃん所詮は男のはけ口にだってなりうるわけじゃん、笑わせやがる、
(だいたい母性って独善の極みでそんな清らかなもんじゃねえだろ)
――と、当世の風俗からして現代以上にそう一笑に付されることは想像がつくわけで。

そこで母性の清らかな優しさを描くにあたって、
『性交渉なんて無縁な体です、でも清楚なだけじゃなく懐深い母なんです、ゆえに聖母です。ひれ伏せなんていってない、救ってあげるの。(赤子のように無条件に抱きしめてあげましょう)』
とはキリスト教、よくぬけぬけと言い切った。
なんと無茶な初期設定……それを逆手にとって『神聖』で解消する、きちんと全体通じて機能しているギミック。すごいや。
(子供の頃はしかし初期設定なんて思えないので、処女懐胎とか何それマジ恐ろしすぎで……笑)

全人間のあこがれる純化された=神聖な=母子像を目のあたりにして、
いろんな意味で心底、
やるなー……。
と敬服し、ほれぼれとなりました。

で、あとは……いっそ聖母子像だけ飾ればいいんじゃないかと思ったのだが、
そうすると行列ができて人波が分散できないから、あれこれを持ち寄ってきたように見えた。
本来、祭壇や天井画と一体化して、場所の空気感で何乗にも高められ拝まれるべきもので、
その一部のタペストリーやらタイルやら祭壇画もろもろを、展示室にぽつぽつ並べられても、
欠損部品を並べられているみたいである。

どうせならもうちょっと欧米の一流美術館なみに、かっちょいい演出を考えてほしい、
あるいはもういっそヴァチカンに行くべきや。

題材もね……。
使徒とか聖人ってのは歴史上、ほとんど例外なく、
迫害されて惨めに獄死してるか、見せしめに手ひどい処刑をされているわけで、
新約聖書だって大概が、キリストの弟子が捕えられて死にゆく牢獄の中で、根気よくしたためた中身だったりとかである(……んで刑死か獄死)。

そういう意味では吉田松陰も顔負けな、涙をそそる、超絶カッコよい信念の伝承方法なのだが、
立派な使徒や聖人がいわば負けた、敗北絵図なわけでもある。

それらを潔く描いてくれれば、胸打たれもするんだろうが、
ラファエロの描く聖人は押しなべてみな、心ならずも去勢されたみたいな、
のっぺらな顔をしてるし、
残酷な処刑・エグい獄死場面を切り取った宗教画は、
かたわらに訳知り顔の天使が寄り添っていたり、
神の光が高みから差していたりして。

一枚にしては説教が過剰で、絵画というよりイラストチックこの上ない、のみならず
『救済』とか『解放(鎖に繋がれ血を流して処刑されてるのに解放というのはすなわち魂の解放と救済ですよ)』
そんなタイトルがこれ見よがしについている。物は言いようにしたってさ……。
旧教特有の抹香臭さが芬々(ふんぷん)としすぎて、
ほとんど生理的に胸糞が悪かったです。