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ポーの『大鴉』に関する考察的な① [は行]

エドガー・アラン・ポーについて思うところを後で補足アップします、
と、2016年6月19日付のブログに書いてから、はや4ヶ月。
夏が来て、夏が去っていったね。

小説について後で解説するのは、ネタバレを避けられない部分も多いし、
物語を楽しみたいのであって、作家を知りたいわけじゃない! という場合、非常に耳障りかと思う。
よほど伝えねばならないことが浮上してこないかぎり、
なるべく避けたほうが無難かな、というスタンスでいます。
が、翻訳については、ちょっと違う。

特に、今回のエドガー・アラン・ポー作品のように、
古式ゆかしい、すでに和訳された作品が、世の中にあまた発表されて読まれてきている、
年季のいった――言い換えれば、いろんな人の手垢もまたついている――作品の場合は。

一次創作の小説の場合(ノベライズとかじゃなくてです)、
作家は作品の世界観を構築し、登場人物をうみだし、物語を展開する。
その小説のいわゆる唯一の創造神なので、
作家同士が同じ作品の共同作業にあたるということは、まず有り得ない。
(少なくとも私は今までに一度もない)
万一、一次創作の小説において(役割分担をするにしろ)
共同作業をしなければならない事態に至るとしたら、
これはかなり不幸な状況なのだと思う。

唯一創造神がいるかぎり、仮に編集部や批評家などが変な意味をこじつけて、
本来の作品を歪曲させようとしたとしても(顕著な例だと、政治的プロパガンダに使うとかね)、
作家が「違います、正しくはこうです!」といえば、
それが絶対的な答えで、別解釈の余地はありえません。

むろん作家が「ここは読者の皆さん一人ひとりの解釈にゆだねます」といえば、
ゆだねられた読者の分だけ、答えが生ずることにもなる。

「作品としては読者の解釈にゆだねるけど、作者である自分としてはこういう意図で書いた」
と作者が白状すれば、「裏設定」になる。

作者が死んだ後に、
編集や批評家やらが「こういう意味だ」「ああいう意味だ」と、
こぞっておかしな教祖さながら的外れな解釈で売りこんだり、叩いたりした場合は、
「神を穢す」「冒涜(ぼうとく)する」という暴挙にもなるわけです。
やたらと称賛しまくるのも「下手な神輿(みこし)を担ぐ」ことに、ほかなりませんが。
で、熱心な読者やファンは、経典のようにその作品を繰り返し読んで、
あれやこれやと考えたり、思いにふけったり、浸ったりする。

いっぽう翻訳の場合は、訳者は、ふつう自分の作品を訳すわけではありません。
概して別国の、別言語を使う他人の作品を訳す。
訳者の性質は、いかに自分が、その原文の作品の理解者になれるか。
その作品を書いたときの作者(今回だったらポー)の精神を咀嚼できるか。
ポーのこだわりを一言一句に至るまで読み取れるか、とそんな能力や心構えが肝になる。
もちろん語学力が必要ですが、語学力はツールです。

で、ちょっと話がそれますが、作者が死んでいるわけではなく、超健在で、
ばっちり生きて目を光らせているにもかかわらず、
そして「すごく間違ってる、全然ちがっています。
こういう感じではないから。的外れな文章を付け加えて解釈を曲げたり、
重要な部分を大幅に削除したりしないでください」と伝えているのに、
「自分はこう訳したいから訂正は基本、受け入れたくない」というスタンスがもろ見えの、
英訳者・担当者・および英訳会社の態度は、一体どうなんだ。

日本人の作家である私が、『カンパニュラの銀翼(中里友香著)』の英訳文を
きちんと読めっこないと見くびって舐めていた、
(つか舐めている)としか考えられない……。

おかげで徒労感やら腹立たしさやらで、英訳チェック(2度目)に、ものすごく気骨が折れて、
ストレスホルモンのコルチゾールが大量分泌されそうになるので、つい後回しになる。

で、ポーの翻訳です。
ポーが生きていたらポーに訊けるが、1849年10月7日に亡くなっています。
(アメリカは1849年当時すでにグレゴリオ暦だから、当時のちょうど今くらいの季節に死亡です。)
これは訳者によって当然、解釈に、ある程度の差異が出る。
言語の誤差や間違いは簡単に正せようとも、
解釈の誤差は、もはや簡単に正せる云々できなくなっている。
ポーに関しては純粋に楽しむだけでなく、研究している人などもいるので、
訳者・中里友香はこういう視点から、このように解し、このように訳した、
と、ある程度クリアにしておくべきか、と思った次第です。
特に詩「大鴉」は――。

短編「告げ口心臓」は、原文自体がシンプルだから、
さほど、訳者の視点や特色に大きな差は生じない、と楽観視している。
……いや、その『告げ口心臓』ですら、かなり見解の相違があった。
わたしは「やみのいろ」というエッセーで書いたように解釈しています。
つまり「自分を正常だと盲信している狂人の詳細な自供」と。
(ポーはこのほか例えば「ウィリアム・ウィルソン」という短編などでも、
信用できない語り手である主人公が自縄自縛に陥るブーメラン的オチをよく使っていますよね。)

その「告げ口心臓」が『ポケットマスターピース E・A・ポー』の巻末にある池末陽子さんの解説だと、
「超自然的方法での犯罪の暴露」
正反対ともいえる解釈の仕方で、
へーえ……あれを魔訶不思議系な事象として解釈するのか……と驚いた。
(無論どっちにも読み取れるように訳しています。)

『大鴉』の詩に関しては、ポー自体が机上に10年以上、ずーっと置いておいて、
その間、長らく放置していたり、
かと思えば、ああでもない、こうでもないと、こねくりまわしたりした挙句、
書き上げた代物なので(……と、ポー自身があとで語っているのが残っていたかと)、
さらっと読んで内容を訳せば済むという詩ではない。

行間に何があるかを感じ取っていくわけです。
だからこそ訳者によって差異もあろう。ポー自身、行間になにがあるかを感じ取らせたいと思って、
書いた部分も多々あろう、と。

なお昨今、
「英語は本来、文章にして書かれていることを、真っ直ぐそのままに受け取る文化でなりたっている。
日本人は行間を読もうとするからこじれる。曲解して、意味が順当に通じなくなる。よろしくない」
という見解と、
「何を言ってる、read between the lines:行間を読むという表現の語源は、もともと英語だぞ。
英文こそ行間を読んでなんぼ」
という主張とが、飛び交っていますね。

私からすると「どっちも正しいよねー、ケースバイケースだよねー」という感じです。

学術論文や新聞記事、ビジネスレターやレポート(報告書)などは、
書いてあることをまず吟味するのが大前提であり大切です。
書いてある内容を精査もしないで行間を読もうとするのは、
筋違いだし、怠慢だし、ほとんど無意味か、悪影響すらある。

いっぽう、詩とか手紙文とか創作物に関しては行間を読むことは大切だし、必要でもある。
詩に関しては逆に、
大げさに言えば、行間を読ませるために原文が構築されていたりもするくらいだ。

ちなみに日本人がよくやりたがるのは行間を読む、ではなくて、
正確に言えば「裏を読む」だと思う。

古来、日本語の表現に「行間を読む」という言い方は、もともと無かったのでは……? 通じますが。

かわりに、表層的な文面にばかり気を取られていないで、裏まで読む!
という「眼光紙背に徹す」なる表現が古くからありますよね。
(ちなみに私は、この眼光紙背という語が大好きでな。)

この「眼光紙背に徹す」を英文に訳せよといわれたら、
read between the linesを使うのが妥当かと思うし、
逆もまたしかり。
なのだが、厳密にいうと「行間を読む≒裏を読む」であって。
似てるけど違いますよね。
ただ文化的な習慣も考慮すると、この双方が匹敵する。

……長くなったので~続きます~

 ☆参考までに☆
 私が訳した『大鴉』の底本は、
 巽先生の助言のもと選ばれた本で、編集者を通じて入手。
 これでした。
 Edgar Allan Poe Complete Poems
 http://www.press.uillinois.edu/books/catalog/92kzx5ks9780252069215.html
 
 大鴉はvariantsも多いのだが、variantsも注釈でいちいち載っています。

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追記(2016/10/14)
ブログの日付、2016年であるべきところを1916年と書いていた。。。
直しました。
こわいわ……当然のように19と頭につけていたことが怖いわ……