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第三十三回文学フリマ東京には出店しません [黒十字療養所出版部]

きたる11月23日に開催の東京文学フリマ東京の出店、今日が申し込み締め切り日です。
私は申しこみません。
今回、中里友香・黒十字療養所出版部は参加を見送ります。
出ません。

私自身とても楽しみにしていたイベントなので、かなり残念です。
参加を見合わせる理由はひとえに新型コロナの感染が収束および終息する気配がまったく見られないことに尽きます。3か月以内にこの感染爆発と病床ひっ迫が収まって、新規感染者数が300人レベルになるとは到底思えない。

なにより私自身、感染したくありません。
かつまた私が無症状感染などで知らず知らずのうちに、私の本を買いにわざわざ来てくれる人に不用意に感染を広めるかもしれないと思えば、恐ろしい。
この疫病下においてわざわざ私の所に本を買いに来てくれる人というのは、本当にありがたく尊ぶべき人なのに、その読者に感染リスクの高い行動を取らせて実際に感染したり後遺症が残ったりしたら……。私は本気で心底病む。
きれいごとじゃない、そんなのは耐え難いよ。
昨年の私はこの程度ならば出店者である私も、参加者である読者の方々も、大丈夫だろうというある種の自信もあったから申しこみ、開催日ギリギリまで様子を見続けたうえで出た。感染力と重症化傾向の強い今の変異株に対しては、しかしながら自信がありません。
私自身、もしも感染して命の危機にさらされたり、後遺症が残ったりしたら、イベントに出たことを後悔します、絶対に。

一つに文学フリマ運営の感染対策が万全か否か、このところ若干の疑問を抱いてもおり、というのも来月9月26日開催の文学フリマ大阪は、昨年と変わらず開催予定であるという。
東京を中心とした関東圏の感染爆発が憂慮する事態なのは言うに及ばず、大阪だって決して楽観視できる状況ではないはずだろう。

現在蔓延している変異株の感染力は従来株よりも2倍近いと言われている、であるならば、出店者数を昨年の半分にし、さらに入場者数も昨年の半分に抑えなければ、ざっくり昨年と同様の感染対策ができていると言えないはず(無論、感染症というのはその手の単純計算が通用するとも限らないので、あくまでざっくり目安としてですが)。
また文学フリマ参加者に推奨されている接触確認アプリ「COCOA」が実際ほとんど役に立っていないと明らかになってきているつけても、昨年と同規模の感染者数であるならば、カクテル療法など治療法が確立されてきている今、懸念材料にもなりませんが、変異株が連日拡大して流行蔓延している状況下で。いささか心許ない。
ワクチン接種は重症化を防ぐ一定の効果があるといえども、感染そのものを防ぐ効果は薄いし、すべての人が打てると限らない。事実、今も病床ひっ迫は深刻なわけです。

もちろん皆それぞれに事情がある。
たとえ話でも何でもなく、余命宣告をされている人もこの社会には必ず確実におられる。いま動けるこの時に、行ける時に行ける所へと強く望んでいる人を安易に責めたり止めたりできるか。私にはわかりません。
来年の文学フリマを待てない事情がある人もいるはずで、文学フリマに出る人を咎める気持ちはありません。

ただし「今、軽率に文学フリマに出ようとする人はいないだろう。つまり今回文学フリマに出る人は覚悟のある真の文学好きであり、文学の道を進む人にふさわしい」といった類の言動には、どうか振り回されないでほしい。
今回の参加や不参加を、文学への思いを測る物差しとしないでほしい。

この週末、フジロックが開催されましたね。
ネット上で、と或る書きこみを見かけました。
「今回は本当に音楽が好きな人だけがフジロックに行ったんだな」
「本当に音楽を生で聴きたい思いの強い人だけが危険を冒してまで、己の危険を顧みずにフジロックに行って、音楽に直接、触れることが許されたんだ」
といった感じの、つまりは興味本位の連中は淘汰され、本物の音楽好きだけが参戦したかの書きぶりだった。

えっと?
疫病下においてフジロックに行くことと、真の音楽好きか否かを決定付けることとは、等しくないよう?
さも音楽への誠実度合や、思いの強さ、好き度合いを試すような妄言で。音楽好きを盾にとった、それはまったく卑怯な物言いではないか。
(音楽好きがすべからく祭好きで、人混みや野外や真夏の天候が得意とも限るまいし)

昨今、この疫病下を戦時下にたとえる人が多すぎるとも感じます。
なるほどこれが戦時下であり、大勢の人が集まるところは焼夷弾が降りやすい、爆撃を受けやすい状況であったならば、フジロックに参加することはたしかに勇気ある行動になる。
たとえ爆撃されるかもしれなくとも、死を甘受し音楽を愛する行動というのは実に骨のある姿だ。全く見上げた根性だぜ。これが戦時下の戒厳令中であったならば、だよ。
まるで坂口安吾の『堕落論』で、戦時下の東京において疎開もせずに、空襲を待ち受けるカメラマンの姿に、安吾が驚嘆を覚えるくだりのようであることよ。

以下、ここ堕落論より抜粋(適宜、読みやすさ重視で改行。)
→私は疎開をすすめ又すすんで田舎の住宅を提供しようと申出てくれた数人の親切をしりぞけて東京にふみとどまっていた。大井広介の焼跡の防空壕を、最後の拠点にするつもりで、そして九州へ疎開する大井広介と別れたときは東京からあらゆる友達を失った時でもあったが、やがて米軍が上陸し四辺に重砲弾の炸裂(さくれつ)するさなかにその防空壕に息をひそめている私自身を想像して、私はその運命を甘受し待ち構える気持になっていたのである。

私は死ぬかも知れぬと思っていたが、より多く生きることを確信していたに相違ない。然し廃墟に生き残り、何か抱負を持っていたかと云えば、私はただ生き残ること以外の何の目算もなかったのだ。予想し得ぬ新世界への不思議な再生。その好奇心は私の一生の最も新鮮なものであり、その奇怪な鮮度に対する代償としても東京にとどまることを賭ける必要があるという奇妙な呪文に憑(つ)かれていたというだけであった。

そのくせ私は臆病で、昭和二十年の四月四日という日、私は*始めて四周に二時間にわたる爆撃を経験したのだが、頭上の照明弾で昼のように明るくなった、そのとき丁度上京していた次兄が防空壕の中から焼夷弾かと訊いた、いや照明弾が落ちてくるのだと答えようとした私は一応腹に力を入れた上でないと声が全然でないという状態を知った。

又、当時日本映画社の嘱託だった私は銀座が爆撃された直後、編隊の来襲を銀座の日映の屋上で迎えたが、五階の建物の上に塔があり、この上に三台のカメラが据えてある。空襲警報になると路上、窓、屋上、銀座からあらゆる人の姿が消え、屋上の高射砲陣地すらも掩壕(えんごう)に隠れて人影はなく、ただ天地に露出する人の姿は日映屋上の十名程の一団のみであった。先ず石川島に焼夷弾の雨がふり、次の編隊が真上へくる。私は足の力が抜け去ることを意識した。煙草をくわえてカメラを編隊に向けている憎々しいほど落着いたカメラマンの姿に驚嘆したのであった。
(坂口安吾『堕落論』青空文庫より抜粋終わり)

*青空文庫の原文ママ

ここでたったの一文で描写されている、「屋上で煙草をくわえてカメラを編隊に向けている憎々しいほど落着いたカメラマンの姿」に、私は憧れます。命が惜しいまともな人間は疎開し、あらかた人が出払ったような東京で、命知らずで孤独な人間しか残っていない。焼夷弾の雨が降る中、米軍の航空編隊を待ち構えて、屋上でカメラを向ける、煙草をくわえ憎々しいほど落ち着き払ったカメラマンの姿を思い浮かべるにつけて、
それは本気でカッコいい命知らず……
できることなら自分もそうなりたいけどきっとなれない、という意味でとても惚れこむ。

でもだ、この新型コロナの感染が蔓延している緊急事態宣言下において、感染前と変わらず好きなところに好きなように出向き、好きな相手と好きなように飲み食いし、感染のリスクにさらされると同時に新型コロナ変異株ウィルスをばらまきまくる行動と、戦時下においても努めて今までと変わらぬ生活を送ろうし、自分という個を見失わないでいる格好良い姿とは、似ても似つかない。
なのに、なぜか重ね合わせているかのような人が実は結構いるっぽいことに大いに驚く。感染症と戦争は本質が違うのに。
混同したらダサいよな。

そんなこんなでこの度の出店は控えますが、本づくりは着々と進めています。


中里友香による公開用・黒猫本体表紙・化粧扉・目次・章扉
中里友香著『黒猫ギムナジウム新装版』・本体表紙・化粧扉・目次・章扉

>をクリックすると全部で16頁、見られます。

まだ少し手を入れるつもりですが、こんな感じで進めているところです。
やたらめったら時間と手間暇が掛かったのが目次なのだが、にもかかわらずそこまで凝っているように見えないし、あくまでさり気なく作りこむのを頑張った、ということで。


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